それは通過儀礼

それはいつの事だったろう。五年、いやもっと前の事か。いつものように夜の街で安い酒を呷り、一夜を共にする女でも見付けようかという頃だったか。その娘に出会ったのは。夜の街には不似合いな、凛とした瞳と佇まいはここでは違和感しか感じさせず、或いは華族の娘か何かが迷い込みでもしたかのような、そんな印象を俺に与えた。

娘は、しかしその違和感しか感じさせない清廉な雰囲気とは裏腹に、何処か酷く思い詰めたような表情をしていて、それが却ってこの街の下卑た男を惹き寄せていた。

「なあ、アンタ」

「……、何でしょう」

気付けば俺は周囲を牽制するように娘に声を掛けていた。突然声を掛けられた娘は訝し気に俺を警戒する。それも当然だろう。娘の聞き取りやすい声にはあからさまな刺々しさがあり、俺は僅かに苦笑した。これではまるで軟派じゃねえか。

「アンタにはここは似合わねえ。悪い事は言わねえから」

「お気遣いなく。……わたくしは望んでここにいるのです」

硬い声が返っては来るが、その顔は明らかに緊張している。「慣れている」人間ではないというのは一目瞭然だった。

「何を望むんだ?」

「…………死を」

ころりと転がった音は酷く自然に俺と娘の間の空間に馴染んで消えた。俺は途端に馬鹿らしくなった。「恵まれた」「祝福された」人間が何をと。

「へえ」

「……突然何を、とお思いでしょうね。でも『わたくしは』どの道明日には死んでしまいますの」

「は?」

娘の伏せた目を縁取る睫毛の何と長い事か。しかしそんな事よりも俺は娘の不自然な言葉に瞠目せざるを得なかった。

「どういう意味だ?」

「……そのままの意味です。わたくしは明日になったら『わたくし』ではなくなってしまうの」

要領を得ない言葉に苛立ちを覚えつつも、それでも娘の言葉の真剣さがそれを一蹴してしまう事を何故か阻んだ。取り敢えず、ここにいても良い事は無いだろうという事で、俺たちは場所を移す事とした。

「宜しかったの、あそこに用事がお有りだったのでは」

俺の後を馬鹿正直に追ってくる娘が俺の背中に向けて発した言葉を俺は聞こえないふりをした。そんな事、俺にだって分からなかった。ただひたすら歩いて、辿り着いたのは打ち棄てられた廃寺だった。

「此処なら良いだろ」

「あの……」

戸惑うような娘に俺は石段に腰掛け、彼女にもそうするように促した。娘は少し悩んだようだったが、人一人と半分くらいの間を開けて俺の隣に腰掛けた。

「で、さっきの話だが。俺にはアンタが明日死んじまうようには見えないんだが」

「……そう、でしょうね。でもわたくしは死んでしまうのです。明日になったら……、明日、わたくしは、わたくしではなくなってしまう」

静かな空間に娘の声音だけが響く。綺麗な声だと思った。絶世の遊女のような玉の声ではないが、聞き取りやすい芯のある声だと思った。

「ねえ、お兄様。お願いがあるのです」

不意に娘の瞳が俺の瞳を捉えた。それはまるで満天の星空を閉じ込めたかのような輝きを秘めていた、と言ったら気障過ぎるだろうか。唐突な娘の願いもこの夜の清涼な空気が許容させる気がした。俺の無言の肯定に、娘は少しだけその顔を笑みの形に緩めた。

「俺に出来る事ならな」

「ええ、ではお兄様にしか出来ませんわ。……どうか、今日の事、わたくしの事を、忘れないでくださいな」

「……は?」

目を瞬かせる俺に、娘は悪戯が成功した子供のように小さく声を上げて笑う。その顔は本当に生き生きしていて、まるきり「死」とは正反対だと思った。

「申したでしょう?わたくし明日には死んでしまうのよ。誰かに覚えておいて欲しいのです」

歌うように言葉を紡いだ娘は、その瞳と同じくらいの満天の星空を見上げて「綺麗」と呟いた。

「そうか?こんなの何処にでもあるだろ」

「……わたくしね、外に出た事が殆ど無いの。お父様がお許しにならないから」

「……そう、か」

何となくその言葉で察してしまって、俺は肩を竦めた。父親というのは何処の家も勝手なのかと何となく苦い気持ちになる。俺の中にあるしこりが形を表出させる前に、俺はその事に蓋をして口を開く。

「じゃあ、通過儀礼、だな」

「……通過儀礼?」

不思議そうに首を傾げる娘に俺は何故ここにいるのかを今更ながらに考えていた。普段の俺ならば、絶対にしない事だった。

「親に反抗するのは、ある意味通過儀礼だろ」

「……まあ!お兄様も反抗したのかしら」

「さあな、忘れたな」

まさか殺したとは言えず、適当にあしらった俺に娘も心得ているのか曖昧な笑みで俺の言葉を受け流した。夜の帳が深くなっていく。それは終わりの合図だった。

「……どうか、お願い致します。わたくしのこと、忘れないで」

どちらからともなく立ち上がって、それぞれの場所へ帰る分かれ道、娘は念を押すように俺の目を見た。その瞳の瞬きが流星のようだと思ったのはやはり、気障過ぎるだろうから俺の中だけに留めておくことにした。

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