はめつきたれり

みょうじ家に男児が生まれたそうだ。あれ程までに憎悪の対象だった私の愛すべき可愛い弟。最早何も感じない。私には最初から何も無い。ただ鶴見篤四郎に付き従うのみである。誰を傷付けようが殺めようが、関係ない。

尾形上等兵が話せるようになったと聞いたので、見舞いに向かう事にした。ただの気紛れではあるが、最近忙しくて様子を見れていなかったというのもある。遣いをやり、指定された日時に顔を出せば尾形上等兵は寝台につまらなさそうに胡座をかいて座っていた。

「寝ていなくていいのかい」

「大体が大袈裟なんです。俺はもう動ける」

お見舞いなのだからと、持ってきた花束を嫌そうに見ながら(これは想定内だ)尾形上等兵は、私に寝台の傍に置かれた椅子を勧める。花瓶を探したら「そんな上等な物はありませんよ」と牽制されたので仕方なく傍らの水を張られた洗面器に入れておいた。

「傷の具合はどうだい」

「割れた顎は繋がったし、腕の骨ももうほぼ問題はないです。早く前線に返してくれ」

「ん、まあ、そう急くな。中尉の命令を待て」

「…………俺はあんたの下にいるんだ。あんたの命令が欲しい」

尾形上等兵の昏い目が私を映す。私も彼を見た。顔に傷跡が残っている。何も考える事なく、手が伸びた。

「っ、」

「傷が、残っている」

人差し指で彼の顎に残った抜糸跡をなぞる。尾形上等兵はやや眉を寄せた後、私の手を掬い取った。

「あ、すまない。傷跡に障ったか?」

「その無自覚は天性ですか?」

「何の話か分からないが」

私の手を取ったまま、尾形上等兵はやはり私を見ていた。取られた手に彼の指が這う。その触れ方は上官と部下のそれとは思えなかったけれど、何も言う気にはなれなかった。それは私が上官のなり損ないだからだろうか。

「…………、 」

「尾形じょうと、」

掴まれた手を引かれたと思ったら、私は彼の腕の中にいた。背中に回るのが尾形上等兵の腕だと思うと少し変な気分だった。爬虫類染みた顔に似合わず彼は存外体温が高いようで、包まれているとじわじわと温くなってきた。

「どうしたんだ?尾形上等兵」

「…………動揺しないのか?」

「動揺しているよ、とても」

不本意そうな尾形上等兵の表情が想像できて少し声が笑ってしまう。その声音に気付いたのか彼は不機嫌そうな雰囲気を隠しもしない。その事が余計に可笑しい。

だが実際の所動揺は少なからずしていた。私の秘密に(明言こそしていないけれど)気付いている男性とこれ程までに近くあるのは初めてだったからだ。高鳴る心臓を殺すのに必死だ。表情や反射を隠す術を身に付けておいて良かったとこれ程までに思った事は無かった。

「俺が、」

頭上から尾形上等兵の声が聞こえる。顔を見ようとするが、彼の大きな手が私の後頭部を絶妙な力加減で押さえているから出来ない。

「例えば俺があんたをここで襲う事だって出来るんだぜ」

「…………そうしたら、みょうじ家の跡取りが出来るかな」

初めて私が女であると言葉で肯定した気がした。だがそれももうどうだって良かった。みょうじ家において最早私は用済みなのだ。権勢は愛らしい嬰児へと移ったのだから。

尾形上等兵の胸に手を突いて、ほとんど無理矢理に彼から身体を離してその瞳を見る。深淵の奥底は見えなかった。それを見つける前に、彼の方から近付いて来たからだ。触れられた唇は少しだけ乾燥していた。

「っ、ん」

唇を喰むような動きに背筋が粟立つ。自然と逃げようとした身体を、力強い腕が引き寄せる。逃げ場なんて無くて、それ以上に逃げる気も起こらなかった。合わされた唇の隙間から漏れる吐息が熱い。唇が触れては離れる動きに合わせて小さく響く水音が恥ずかしい。

合わせられた唇は始まった時と同じように音も無く離れて行った。ぼんやりと、彼を見つめる。尾形上等兵は何処か罰の悪そうな顔をしていた。

「…………これは、少し驚いた、と思う」

「……上官暴行になりますか」

「……多分、大丈夫じゃないのか。私も別に、拒まなかった訳だから……」

というかこんな事誰にも言えないだろう、とは言わなかった。私が呆けている様子が可笑しかったのか、尾形上等兵は私の顔を見て鼻で笑った。だがそれは嘲笑ではなくて、どちらかと言うと上手く感情を表せなくて出た苦笑のような気がした。

「というか、君は上官にいつもこんな事を、」

「はあ?……やはり天性なんですね。俺は気持ちを弄ばれて傷付きました」

「は?君と言う人間は、よく分からないな」

会話が噛み合っていないような気がしなくもないが、尾形上等兵の声音や雰囲気に毒が無い事を鑑みても、私に対して悪意がある訳では無いのだろう。

まるで本当の女のように私を扱おうとする彼に、微笑んでみる。上手く笑えたかは分からなかったけれど、尾形上等兵はまるで妹か何かにするように、私の頭に大きな手を置いて髪が乱れないように静かに撫でてくれた。

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