想い出は業火に灼かれた

その人と出会ったのは父がきっかけだった。徳川の世から武の道で名を立てたみょうじ家は軍人に知人が多い。花沢の家に連れて行かれたのはただ父上が花沢閣下と顔見知りだったからだろう。私に分別がついてからは、父は色々な知り合いに私を紹介した。それにどういう意味があったのかは、父にしか分からない。だが私には、それはまるで小さな子供が新しく与えられた玩具を見せびらかして回るように見えた。

花沢閣下に引き合わされて簡単に挨拶を交わす。花沢閣下の目は、爬虫類みたいに光が無かった。それが幼い私には殊更恐ろしくて私はとても聞き分けの良い、良い子を演じた。内心は早く家に帰りたくて仕方がなかった。

「利発そうな子だ」

花沢閣下の声に黙礼を返す。私の声は高くて芯が無いから、なるべく声を出すなと言われていた。背筋を伸ばしてただ、前を見ていた。父上は花沢閣下と話に花を咲かせている。つまらなかったけれど私に何か言う資格も無かったので我慢していた。そうしたら廊下に人の気配がして、目線を遣った。障子が薄く開けられていて、そこには私より幾分か歳上の男性がこちらを覗いていた。

「君がなまえくん?」

「はい。あなたは、勇作さん……」

優しそうな眼差しで、私に向かって笑いかけたその人が花沢勇作さんだった。

勇作さんは父らに許可を得て、私を連れ出してくれた。勇作さんの立場が悪くならないだろうかと、まごつく私に彼はなんと快活に微笑むのだろう。それは心からの笑みに見えた。どうやったらそのように朗らかに笑えるのだろう。私は不思議でならなかった。

「大丈夫。あの場にいても、君もつまらないだろう?」

「そ、のような事は……」

取り繕うけれど勇作さんはにこにこと微笑むだけだった。それから彼は私を誘って彼の自室に連れて来てくれた。

「君の話は聞いているよ。とても優秀なみょうじ家の跡取り」

「買い被り過ぎです。私こそ、勇作さんのお噂はかねがね。勇猛果敢で人格者だと」

人に気に入られる事には慣れていた。人好きのする笑みを浮かべて、相手が言って欲しい事を言えば良い。それなのに、勇作さんは少し困ったように私の目を覗き込んだ。柔らかい光が私の目を灼いた。痛いくらいの光に突き刺されて咄嗟に瞬きしたら、その光は消えてしまっていた。

「なまえくんは、すごく無理をしているんだね」

「、それは、どういう……」

勇作さんが何を言いたいのかがよく分からなくて警戒する私に、勇作さんは眉を寄せて笑った。

「無理をして人に好かれなくても良いんだよ」

「…………無理など、していません」

「そう。ならせめてここにいる間は自然体の君でいて」

柔らかな眼差しが三日月に歪む。曖昧に微笑み返した私は何と言ったのだろう。思い出せない。是と答えたか否と答えたか。どちらだとしても、私の事を決めるのはいつも私では無かった。

浮上する意識に目蓋を押し上げる。いつの間にか、眠ってしまっていたようだった。固まった身体を起こして伸びをする。尾形上等兵はまだ帰ってきていないようで、私が目を閉じた時と状況は何一つ変わっていない。

身体を起こし寝台に膝を抱えて座る。少し肌寒かったから置かれた着替えに袖を通そうかと思い広げたが、女物である事に気付き顔を顰めた。尾形上等兵はわざとこれを用意したのだろうか。もし、私がこれに袖を通したら、それは私が私を捨てた証になるのだろうか。

もしそうであるならば、私はまだ、「帝国陸軍の」みょうじなまえを捨てる覚悟は出来ていなかった。仕方なく一度広げたそれを畳み直し、寝台の端に置いた。

膝を抱え直して先程の夢を思い出す。勇作さんとはあれ以来、時々交流する仲になった。彼は私に「みょうじ家のなまえ」を求めなかったから、私はある意味で彼の言う「自然体の私」を演じる事が出来た。もっとも最早私ですら「自然体の私」が分からない。みょうじ家の嫡男であるなまえという人間を、生まれてきた時から演じてきた私には。

勇作さんは「自然体の私」を求めた。そしてその兄御の尾形上等兵は、「意思がない」と私を謗った。私は求められるがまま、「私」を演じてきただけだ。これ以上、どうしろというのだ。

「……何だ、まだ着替えてなかったのか」

不意に戸口が開けられて、そこには尾形上等兵が立っていた。視線を巡らせてその顔を見る。彼は呆けたような私の視線など気にした素振りも無く、無遠慮に近付くと私の顔を覗き込んだ。

彼の暗い色の瞳に私の顔が映っていた。つまらなさそうな顔で唇を尖らせているその顔はまるで子供のようだ。

「…………着替えの服を、間違えているよ。これは女物だ」

「別に間違ってないだろ。あんたに似合うと思ったんだが」

さも当然、と言った様子で私に言葉を返す尾形上等兵に苦笑が溢れる。分別がついてからこの方、「可愛らしい」着物を着た事が無かった。

「凄く可愛らしい着物だ。でも私が着たらきっと酷く目立ってしまうよ。軍人と女より、軍人二人の方が目立たない」

「……造反した尾形百之助は素性の知れぬ女と手に手を取って逃避行。みょうじ少尉は裏切り者の部下を追って行方知れず。この方がまだ、あんたの経歴に傷が付かねえ」

視線をつま先に落とす。少し伸びた爪を見ていた。尾形上等兵の気遣いは素直に嬉しかった。彼は私に戻る道を与えている。きっと私を強引に連れて来た事を内省しているのだ。私だって、逃げようと思えば逃げられたのに。

「勘違いして欲しくないんだが」

「…………」

「私にだって意思はあるし、そもそも君にここまで連れて来られて、しかも最後の選択肢だって与えられたのに逃げなかったのは私の意思だ」

私の隣に座るように寝台を叩いて促す。尾形上等兵はとても素直に私の隣に人半分くらいの隙間を開けて座った。

「私は確かに意思が薄いけど、それでも何かを選び取る事は出来るんだ。そして今、私は私に課せられた全ての責を捨てて君の手を取ろうとしている」

身体に力が入る。みょうじの家を離れて生きてはいけないと思っていた。父母の言うとおりにしなければ私の存在価値など無いのだと思っていた。

でもこれはきっと。

「…………親に反抗するのは通過儀礼、なのだろう?」

輪郭の無い言葉を尾形上等兵がどのように受け取ったのかは分からない。ただ、彼が空気を震わせるように笑ったから、きっと肯定的に受け取ってくれたのだろう。私も笑った。何だか私が「私」でいた最後の夜を思い出した。

「この着物、好きだ。可愛くて、とても綺麗」

「…………そうかい」

広げたそれを軍服の上から纏う。大人になってから、初めてこんな色の着物を着た気がする。多分、嬉しいのだと思う。心臓が掴まれたように高鳴った。

「似合うかな?」

「……ああ、まあ、悪くは、ない」

「そう、良かった。……ありがとう」

自然と顔が笑みに歪む。こんな顔で笑ったのは多分、これまでには無かったと思う。裾に触れる。柔らかくて、何だか気持ちまで暖かくなった。

「勿体ないから、本当に大切な時に着るよ。私が、本当の私になった時とかさ」

「別に、こんなモンいつでも……」

尾形上等兵は口籠るように何か言ったけれど、私には何でも良かった。纏った着物を綺麗に畳む。背嚢に入れるには少し大きいけれど、大切にしていたいと思った。

「暫くは軍人二人かな。一体どこに行く気なんだい。当面は君の行きたい所について行くよ」

座り込んでいた寝台から勢いをつけて立ち上がる。結わえていた髪が肩口で揺れて、随分髪が伸びた事に気付いた。そして私は少しずつ親の敷いたレヱルからも上官の命からも既存の何もかもからも逸脱しているのだと実感して、どうしてかそれが堪らなく可笑しくて声を上げて笑ってしまった。

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