火鼠の皮衣

番外編「蓬莱の玉の枝」の夢主側の話

私に縁談が来た、そうだ。父は何処か困っているような、それでいて誇らしそうな顔で私に告げた。久方ぶりに実家に呼び出されたと思ったら、告げられたのはまるで馬鹿げた夢物語のような話だった。

相手は子爵家の令嬢。見目麗しく気立ても良い。徳川の世から続く武の家であるみょうじ家との釣り合いも取れているとの話であった。ただ一つ、私の秘密さえ除けば。父は何としても破談の方向に向かわせるとは言ったものの、何せ仲人が上官では強く言う事もできまい。

「……はあ」

士官になってこれ程後悔した事は無いような気がした。ある意味で、世捨て人にでもなってしまっていた方がこんな難題を抱え込まなくても良かったのだから。顔が険しくなるのが自分でも分かる。今日が書類整理の日で本当に良かったと心から思った。いついかなる時も、自らの不快を外に出してはならぬと教わっていたからだ。

(縁談……、確かに年頃になれば、そういう話が来てもおかしくない……)

「…………い」

(だが、父上は何を考えているんだ?私が妻を娶れないのは自明の理ではないか……)

「しょ……い……」

(全く気が重い……、相手の御令嬢に何と言って断れば良いのか)

「……少尉」

(この件で相手の御令嬢が何か言われなければ良いが……)

「みょうじ少尉!」

「……!?……何だ、月島軍曹か……」

肩がびくりと震えた。ぱちりと目を瞬かせる視線の先には家族以外では唯一私の「秘密」を知っている月島軍曹が立っていた。

「『何だ』ではありません。何度もお呼びしましたが」

「あ、ああすまない。何か用か?」

平常心を取り戻そうと、軍帽から覗く髪を掻き乱す。やや伸びてしまった髪は近々また切らなければならないだろう。そう思うと少し目が細まった。

「目を通していただきたい書類を幾つかお持ちしました。明日の朝までにお願い致します」

「……士官というのはこういう時面倒だな」

「幾つか」と言うには幾分も多い書類の束に苦笑いを浮かべる。代わりに完成した書類を月島に渡すも、少しばかり眉を顰められてしまった。

「随分と少ないですね」

「ばれたか。少し呆けていた」

「みょうじ少尉ともあろう方が珍しいですね。何か悩み事でも?」

さり気なく、戸の外の気配を探ったのであろう月島軍曹は、少しばかり声を落として私の顔を見た。その目の奥にどうしてだか、私は音之進を見た気がした。

「うーん……。困っているんだ」

「はあ、何にですか?」

「うん、実はな私に縁談が来た」

「…………は?」

次にぱちりと目を瞬かせたのは月島軍曹の方だった。きっとその顔を私も父に見せたのだろう。だって全くの予想外だもの。

「あ、やっぱりそういう顔になるよなあ」

「当たり前でしょう!だ、第一あなたは……!」

「うん、だから困っているんだ」

苦笑を隠せない。断る事は決まっているのだから、縁談が来た時点で断ってくれれば良い物を。

「全く父上にも困ったものだ」

「……そういう問題なのですか?それで、どうするおつもりなのです?」

「断るに決まっている。だが、問題はどのように断るかだな。こちらの都合なのだから相手の御令嬢に恥をかかせては失礼だ」

顎に手を当てて考え込む。月島軍曹はそんな私を見て目を眇めた。それはまるで。

「あまり可哀想な物を見るような目で見ないでくれ」

「っ……、失礼しました」

「いや、私も月島軍曹の立場だったら同じような目をしたかもな。……とにかく、知恵を貸してくれないか。私だけでは少々荷が重い」

肩を竦める。月島軍曹から受け取った書類に目を通しつつ、週末に控えた見合いの席について思いを馳せた。相手の御令嬢に礼を失す事無く、且つ九条の家格を貶める事も良しとせず。これは中々。

「骨が折れるなあ」

「他人事のようですな」

「実感が湧かなくて」

「……この件は、相談されたのですか?」

不意に月島軍曹の声音が一つ下がった。質問の意図を測りかねて首を傾げると、彼は再度私に聞いた。声の調子は先程よりも幾分高い。

「鯉登少尉に、この事は相談されたのですか?」

「音之進には、相談出来ない。彼は、私の事を……、知らない」

自分でも驚く程穏やかな声が出た。音之進の事は信頼している。彼に相談したらきっと親身になってくれるだろう事も分かっていた。ただ私自身が、彼の信頼に適わないのだ。

「……少尉は」

顔を顰めた月島軍曹だったが、結局その先の言葉を言う事はなかったから、その言葉が私宛ての物なのか、音之進の事を指しているのかは分からずじまいだった。

「取り敢えず断り文句を一つ、欲しいと思っている。父も破談になる事には納得している。少しくらい、家名に泥を塗っても目くじらをお立てにはならないだろう」

「断り文句、ですか……」

「そうだ。私も幾つか考えた。検討してくれ」

懐紙に書き付けた物を月島軍曹に手渡す。彼は両手でそれを受け取るとすぐに広げた。

「なんですか、この、『出家する』というのは」

「一番良い案だと思ったんだが。現世の儚さに憂いて若くして世を捨てるなんて、若者に一番ありそうじゃないか?」

「いやいや。普通こっちでしょう」

そう言って月島軍曹が指したのは、私が四番目に思い付いた案だ。つまり、「既に好いた相手がいる」という。

「好いた相手?誰にしたら良いんだ?」

「おおよそ叶わない相手の方が宜しいかと。生涯その人の事を想うのだと纏めればお相手も簡単には入って来れないのでは」

「…………なるほど。……『生涯叶わぬ相手』か」

内心で合点する。これならば、週末の見合いの重要な切り札になりそうだと思った。先ほどより晴れやかな気持ちに微笑みが漏れる。月島軍曹も私のその顔に何かを感じたのか、困ったような微笑みを見せた。

「士官というのも大変ですな」

「まあ、期待は重いが、月島軍曹のように助けてくれる者も沢山いるから何とかやれているよ」

肩を竦める。先ほどより仕事に集中出来そうな気がした。

***

週末

いよいよ見合いの席である。礼服に身を包むと何だかそわそわしてしまう。父もいつもより僅かに落ち着きが無く見える。だが手筈は整っている。私には月島軍曹と考えた最強の断り文句があるのだから。

戦場に向かうような心持ちでテーブルにつく。相手の御令嬢は美しい顔をしていた。歳は私と同じくらいだろうか?私も「こんな」でなければあのように俯いて座っていたのかと思うと、世の中の事が良く分からなくなった。

親同士の会話が続いて、私たちも振られればそれに答える。相手の御令嬢の綺麗な声が印象的だった。一度だけ目が合ったから微笑んで見せると、彼女は耳まで顔を赤くして目を逸らした。

とても可愛らしい人なのだなと思った。愛らしくて、淑やかで。だからこそ、自分のせいで悪評が立つ事の無いようにしなければと思う。

「それでは、後は若い人同士で……」

両家の親が退出する。二人きりになった部屋で御令嬢は恥ずかしそうに視線を下げている。言わねば、言ってしまわねば。

「あ、あの……」

「はい……」

「その、私には」

「ええ、存じております。なまえ様には好いた方がいらっしゃるのでしょう?」

……うん?

予想外の展開に疑問符が止まらない。何でその筋書きの事を?先読みされているようだが、仕方なく続ける。

「え、ええっと、……え、ええ、そうなのです。私には好いた、方がいて、その」

「分かっておりますわ。私など、とても……とても敵いませんもの……。鯉登音之進様には」

「…………はい?」

どうしてここで音之進の事が出て来るんだろうとか、どうして彼女はこの筋書きの事を知っているんだろうとか色々な事が頭の中を駆け巡る。とりあえず一つずつ片付けて行こう。

「あの、私と音之進は……」

「存じております。なまえ様とあの方は表裏一体、比翼の鳥。お互いに想い合う特別な関係なのでしょう?」

語弊があるような気もするが、目の前の御令嬢はまるで美しいものを見るような陶酔した目を向けて来る。一体誰の何と勘違いしているのだろう。だが御令嬢の勘違いそれ自体は好都合なので頷く。

「え、ええ。そうなのです。私は音之進の事を想っています。彼が私をどう想っているかは分かりませんが……」

もうこの際私の想い人は音之進という事にしてしまおうと思った。見合いのギリギリまでその事を思い付かなかったが、いざ思い付いてみれば、ある意味では音之進は「生涯叶わぬ相手」だろう。月島軍曹の話にも合致している。

「嗚呼、なまえ様はやはり、あの方の事を愛していらっしゃるのですね!互いに想い合っているのに、世間はそれを許さない……。なんて、尊いのでしょう!」

「た、互いに想い合っているかどうかは分かりませんが、とにかく、私は音之進の事を強く想っていて、それで……」

御令嬢の目を見る。騙している事に罪悪感はあったが、仕方のない事だ。意思の強そうな顔をして見せた。

「それで、私は、たとえこの想いが叶わなくとも、生涯妻を娶らぬと決めているのです」

「なまえ様……、」

何故か御令嬢はうっとりとした目で私を見つめている。よく分からないが伝えるべき事は伝えたから、後はとにかくこの話を破談に持って行かねばならない。慎重に次の言葉を探していた時だ。

「嗚呼……っ、本当に素敵!そうですわ。尊いお二人の間に、私なんかとても……!このお話、私からも破談にするよう父に話してみます!」

「あ、ああ……、それはとても、ありがたいです」

思ったより早くに事が済んでしまって、私も拍子抜けである。御令嬢の方はまだ夢見心地の視線で私を見つめていた。

「なまえ様、一つ伺っても宜しいですか?」

「私に答えられる事ならば」

「なまえ様は、あの方のどこを愛していらっしゃるの?」

呆気に取られる私に御令嬢は綺羅綺羅とした瞳を向けている。最後まで演じ切らねばならないだろう。気恥ずかしさを押し殺して、咳払いする。

「そう、ですね。私が好きなのは……」

***

週明けに物言いたげな月島軍曹が執務室を訪れた。察するに縁談の話について聞きたいようだ。

「やあ、おはよう」

「おはようございます。……それで、首尾は」

「ああ、何だかよく分からないけれど、とんとんと話が纏まって、あっという間に破談になった」

声を上げて笑う私に、月島軍曹は脱力した顔を隠さない。どうやら本気で心配してくれていたようだ。良い部下を持ったものだと感慨が起こる。

「それは、何というか。おめでとうございます。この言い方で正しいのかは分かりませんが」

「うん。その事で少し気になったんだが」

「…………?」

週末を回想する。御令嬢の言っていた言葉が蘇る。

「巷で私と音之進は実は互いに愛し合っていて、お互いに生涯妻を取らないと誓い合った仲だという噂が流れているのは本当か?」

「…………はあ!?」

「あ、やっぱりそういう顔になるよなあ」

声を上げて笑う。訳の分からない噂だがとりあえずは助かった。頭の痛そうな月島軍曹に微笑み掛けて、私は今日の仕事に取り掛かるのだった。

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