私には親友と呼べる友が一人いる。友人はそれなりに多い方だと思うが、親友はただ一人、彼だけだ。
みょうじなまえ
みょうじ家の長男であったなまえと鯉登家の次男であった私はお互いを莫逆の友とせんとして引き合わされた。出会う前、噂に聞く「優秀な」みょうじ家の御曹司は私と同い年で、いつもいつも比べられていた私からしてみればこの上なくいけ好かない存在であった。だからこそ私はこの面談に友好関係など生まれないと思っていた、のに。
「君が音之進くんか?」
目の前で微笑んで手を差し出してくるその少年はまるで想像していた男とは違っていた。私の物とは違う柔らかそうな髪、柔和な顔立ち、青白くすらある色白さに赤い唇が艶かしかった。言われなければ女子と見紛う目の前の少年の意思の強そうに光る瞳が、しかし市中の女子よりも彼を男子たらしめていた。
「そ、ちらは、なまえ、さん……」
「……!さんづけなんて堅苦しい。私たちは同い年なんだからなまえで良い」
「では、私も音之進と呼んでくれ……」
今でこそ交友関係は広い方だが、当時の私は他に同年代の心安い者もおらず、どうしても気後れしてしまう。そんな私とは対照的に、なまえは快活に笑って中途半端に差し出された私の手を確りと握った。形の良い手だったが、掌は酷く硬かった。竹刀胼胝だ。
互いの自己紹介も終わり、両家の父親が二言三言会話する間、私はこっそりとなまえの事を盗み見た。凛々しい、と思った。ぴん、と伸びた背筋がなまえの自信の有り様を私に教えた。聡明そうな知性的な瞳の輝きは、しかしぎらついた野心などは感じられず人好きのする三日月型に歪められていた。形の良い薄い唇は赤くて触れたら柔らかそうで……、そう考えたところで私は我に帰る。
(私は何を……!)
己を恥じる事を止められなかった。よりにもよって「あの」みょうじの家の跡取りを「まるで女子のようだ」などと。
私の不躾な視線に気付いたのだろうか、不意になまえが私の方に視線を移した。意思の強そうなそして澄んだ力強い瞳が私を射抜く。咄嗟に視線を逸らそうとするよりも早く、私と視線を絡ませたなまえは私に向けて微笑んだ。
それは雷に打たれたかのような衝撃であった。なまえのその、凛々しい花のような微笑みをこの目に映した瞬間、私の頭の頂点から足の先までに落雷のような衝撃が走ったのだ。叫び出したいような衝撃に心臓がばくばくと鳴るのを抑える事が出来なかった。それは正しく天啓とも呼べる衝撃であった。ああ、私はこの人と生涯親しくあるのだろうと。ある種将来の妻とのものよりも強い絆を、私は確かに感じたのだ。
「父上、私は音之進と二人きりで話がしたいです。ねえ、宜しいですか?」
自然な笑顔で自らの父親にそう強請るなまえが羨ましくさえあった。しかし私と話したいと言ってくれた事は素直に嬉しくて、私も頷いてぎこちなくも父に同じように頼んでみる。
「わ、私も……。なまえともう少し話がしたいです……」
両家の父親はそれが目的なのだから、否やと言う筈も無く、私たちはあっという間に二人きりになった。途端に心細さが増す。なまえの期待に応えられるような会話が私に出来るだろうか?
「そう硬くならないでくれ。私たちは友人になるのだから」
「ん……、だが……」
男子にしてはにこにこと良く微笑むなまえのその顔を見る度に、心臓が跳ねる。笑ってしまうくらいに可笑しな自分の感情について行けなくて、私は無理矢理なまえから目を逸らした。
「ほら、音之進。庭に行こう。この料亭の庭は結構風情があるんだ」
風情の何たるかも分からない私に、なまえは悪戯っぽく笑って私の手を何の躊躇いも無く取って引いた。柔らかさと硬さの混在するその手の温もりに心臓が最高潮に拍動する。かあ、と音が立つように熱くなる頬を隠すように俯きながら私はなまえの後を追って沓脱から庭へと降りた。
「っ、なまえ……!どこへ行くつもりだ……?」
「こっちだ。この料亭は私の母の縁者がやっているんだ。幼い頃から本当の庭のように遊ばせていただいた。こっちに私のお気に入りの場所がある」
木漏れ日となまえの悪戯っぽい笑顔が合わさって、私はまるで可愛らしい木霊か何かにでも導かれているような気分になる。そしてそれを心地良いと思っている自分にも驚く。今までこんな考えに至る事など無かった。誰かを可愛らしいと思う事も、誰かと共にいる事を僅かでも心地良いと思う事も。
「ほら、ここだ。池があるから落ちないように気を付けろ」
「これは……。確かに見事だな」
「そうだろう?今日は他に客もいないそうだから、私の好きにして良いと言われているんだ」
そこは朱色の橋が架かった小さな池だった。鯉が泳いでいて、私には分からないがきっとよく手を掛けられているのだろう、大きくて、力強く泳いでいた。なまえは橋の中央まで歩いて行くと、欄干に身を預けて私を見た。少し物憂げな表情も色香すら感じさせて、また可笑しな考えに私は慌てて首を振った。
「私は音之進と良い友人になれると思うんだが、音之進はどうだ?」
「なまえ……」
「何か不愉快だったら言ってくれ。私には同年代の友人がいないんだ。だからこれでも手探りで距離を縮めようとしている」
少し照れたように微笑んだなまえに目を丸くする。てっきりなまえくらい気安い人物なら友人くらい大勢いると思っていたからだ。
「私はてっきり、なまえには沢山友人がいるものかと……」
「まさか!私はかなりの人見知りだぞ。音之進こそ友人は多いんじゃないか?」
「それこそまさかだ。私の噂を聞いた事が無いのか?」
口にして、ああ失敗したと思った。「私の噂」即ち私の悪童ぶりをなまえが知っていたら、いいやきっと知っていなくても、知ってしまったら幻滅するに違いないから。俯いた私にかつん、となまえの履いた革靴が地面を叩く音がする。視界になまえの靴が見えて、彼が目の前にいるのが分かる。顔を上げられなかった。
それなのに。私より少し低い所にあるなまえの顔が私の顔を覗き込む。ふわりと香ったのはなまえが焚き染めた香か何かだろうか。
「私はな、音之進。噂なんてあまり興味が無いんだ。今日、初めて音之進を見た時から私は音之進と友人になりたいと直感で思った。私はその直感を信じたいんだ」
「なまえ……」
「なあ、友人になるのに噂なんか必要無いだろう?私は音之進と友人になりたい。それだけじゃ駄目か?」
にこりと、人好きのする笑みが目の前で綻んで、心臓が高鳴ったがそれ以上になまえの言葉が嬉しかった。私と引き合わせられる者は大抵私の「噂」に尻込みする。こちらもそういった手合いの者たちと心安くするつもりは無かったからそれでも構わなかったが、やはり思うところはある。それを何の先入観も無いと少なくとも言葉で示してくれる人に、私は初めて出会った。
「駄目、じゃない……」
「そうか!じゃあ私と音之進は今日から友人だ!それで良いな?」
「……うん」
男子はいついかなる時も泣いてはならぬと言った兄様の言葉を思い出して、泣きたくなるのを必死に耐えた。私は兄様の生きられなかった生を生きても良いのだろうかと、その時ふと思った。
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