なまえに、縁談が来た。そう聞いた時何故だろう。地面ががらがらと崩れてしまうような、そんな心持ちがした。士官学校を卒業する手前頃から私にも幾つか縁談が来ていたのだから、彼に来ていてもそれは当然の事なのに、私にとってそれは大層な衝撃であった。
お相手は子爵家の御令嬢でみょうじ家との釣り合いも取れている。見目麗しく、気立ての良い娘であると専らの噂であった。なまえの妻としてこれ以上のお相手はいないように思われた。だからこそ、抱いた感情が私を苛んだ。
もし、なまえがこの縁談を受けてしまったら。彼が所帯を持ってしまったら。彼がその妻を愛してしまったら?私は彼の「一番」ではなくなってしまうのでは?私の中ではそれは誠、耐え切れそうになかった。
幼少より共に育ち、誰よりも心を許し合った仲だと自負している、そんな莫逆の友が。置いて行かれるような心持ちを感じる私を責められる者がいるであろうか?男子の癖に女々しい自分に恥じ入る思いとどこか開き直る気持ちとが綯い交ぜになって私は暫くなまえの顔を真正面から見れなくなってしまった。
「どうされたのですか」
「……!っ、いや何でもない……!」
目の前にばさりと積まれた書類の束に意識を引き戻される。見上げればそこには呆れた表情の月島が立っていた。士官という立場上、身体を動かすだけでなく、書類とも向き合わねばならないのは私にとってはやや辛い事である。先程まで私の思考の殆どを占めていたなまえは今は演習で近くの練兵場に繰り出している筈であった。
「嘘おっしゃい。虚無の表情をされていましたよ。何かあったのですか?」
はあ、とため息を吐く月島に肩身の狭い思いになる。本当にこの男は人の事をよく見ていると思った。
「その……なまえの、あ、いや……みょうじ少尉の……」
「人払いをしています。気を楽にしてください」
「う、すまん……。なまえの事だ」
「……?みょうじ少尉がどうかなさったのですか?」
不思議そうに目を瞬かせる月島に私は逡巡する。親友が妻を娶ろうかという時には普通祝福するものなのではないのか?それを子供のように駄々を捏ねる私は相当見苦しいのではないのか?そんな考えが脳裏を過った。
「鯉登少尉?」
黙りこくる私をみかねた月島が促すように声を掛ける。声帯の手前で止まってしまった言葉はしかし、私の意思とは無関係にするりと口を突いて出た。
「なまえに、縁談が来た……」
「…………は」
「き、貴様、今『何だそんな事か』という顔をしたな!?」
顔が熱くなっているのが分かる。一世一代の告白にも近かったのに、月島の反応は思うような物ではなく、それが逆に私を惨めにさせた。
「……分かっている。こんな気持ちは間違っていると。なまえが妻を娶る事を寂しいと思うことなど、親友としても男子としても間違っている!だが……っ」
「あの、宜しいですか、少尉」
不意に月島が私の言葉を遮る。珍しいと思った。この男が誰かの話を遮って口を挟む所を私は初めて見た。
「な、なんだ……」
「そのお話、みょうじ少尉はお断りしたと伺っておりますが」
「え?」
予想外の言葉に今度はこちらが目を瞬かせる番だった。断った?誰が?誰を?
「なまえが、断った?な、何を?」
「ですから、子爵家との縁談ですよ」
「何故!?」
「……私に聞かれても。それはみょうじ少尉に直接お伺いした方が宜しいかと」
「ほ、本当に、本当なのか?……だってなまえにとってもとても良い話だと……」
俄には信じられない話に眉を寄せる私に、月島は何故か複雑そうな顔をして唇を引き結ぶ。
「さあ、何か『事情』があるのではないですか?いずれにせよ私は少尉本人からその話はお断りしたと伺いましたので」
「っ……、そ、そうか……」
無二の親友と思っていた私より先に月島に話が行っている事に動揺しつつも私は安堵していた。そして抽斗から懐紙を一枚取り出し、なまえへの言伝を書き付ける。月島にそれを渡せばため息を吐きながらも伝令役になってくれた。
「演習が終わり次第来られるそうですよ」
早速伝令役としての務めを果たしてくれた月島に頷いて礼を言いつつ、私は夜に想いを馳せる。久し振りになまえと盃を酌み交わすなあと何となしに思いながら。
***
それはなまえと初めて出会った料亭で行われた。連れ立って隣を歩くなまえの顔は気安くて、演習の程よい疲れが彼の口を緩ませそうだった。
案内された部屋は月がとても良く見える部屋で、なまえは少し嬉しそうで、私も上機嫌ななまえを見れて唇が緩むのを抑えられなかった。
「今日に飲みに行こうなんて言うから驚いたぞ」
「すまない。だがどうしても聞いておきたい事があって……」
最初の一杯を酌み交わし、少し世間話をした後、切り出したのはなまえからだった。少しだけ困ったような物言いに私は怖気付きそうになるのを必死に耐える。聞かねばならぬ事があるのだから。
「あの、なまえ……」
「うん?どうした?」
「その、聞いたのだ。お前に、え、縁談が、来ている、と」
尻窄みに消えていく己の言葉を情けなく思いながら私はなまえの顔を上目に見つめる。なまえは驚いたように目を見開いた後、今度こそ本当に困ったように眉を寄せて笑った。
「何だ、聞いていたのか。うん、来ていたよ。断ったけれど」
「な、何故!?」
安堵しつつも不可思議な結末に眉を寄せるのは私の方だ。問われたなまえは苦笑しながら口を開く。
「何故って……。私はまだ何者でもないんだ。妻を貰うにはまだ早い。それに音之進、君だって来る端から断っているだろう?それこそ何故って話さ」
可笑しそうに、でも困ったように笑うなまえの姿を見ていたら途端に力が抜けてしまう。知らず詰めていた息を盛大に吐いた。
「どうしたんだ、いつもの音之進らしくないな。熱でもあるのか?少し夜風でも入れるか?」
「あ、ああ。うん……」
立ち上がって僅かに庭に続く戸を開けたなまえは、しかし感嘆の声で私の名を呼んだ。
「どうした、なまえ……。ほう、これは……」
「なあ、見事だろう」
それはとても大きく煌々と輝く月であった。そう言えば今日は十五夜であったか。
「綺麗な月だな」
「……ああ、今ならきっと手が届きそうだ」
私よりも小さくて形の良い手を月光に翳しながらなまえは笑った。その顔を見ていたら、うじうじと悩んでいた自分が馬鹿らしくなってしまう。なまえならきっと、もし妻を娶ったとしても優劣など付けず私の事だって尊重してくれるだろうと、そう思えたのだから。
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