なまえの様子が、おかしい。あの口論の日以来なまえとはまともに顔を合わしていない。それでも、どこかおかしい事には遠目でもすぐに気付いた。
洗練された身のこなしや部下に向ける気遣いなどは変わらない。優しい雰囲気もまた同じくだ。ただ、その瞳に宿る翳りが彼の明朗さを打ち消すようになった。
私といる時間よりも、月島軍曹や鶴見中尉、そして尾形上等兵らといる時間の方が長くなった。髪を伸ばし始め、身重の御母堂の事も見舞いもしない。何もかも、かつての彼とは違う。
一度だけ、それを彼に指摘した事があった。何か、良くない事を吹き込まれて唆されでもされているのではないかと思ったからだ。それなのに彼はまるで女のような蠱惑的な目で私を見るのだ。
「別に君が思っている程の事ではないよ。ただ、私にはこちらの方が『合っている』のさ」
唇を歪め、何処か俗っぽい笑みを浮かべたなまえに私は何も言えなかった。その内になまえは和田大尉付きとなったから彼と顔を合わせる機会はぐっと減ってしまっていた。なんだかとても怖かった。親友が、距離を超越した遠くに行ってしまったようで。
***
鶴見中尉が私に与えた最初の仕事は、和田大尉の忠実な犬となる事であった。それについて、私はとても上手くやったと思う。それだけの、自負があった。
その任を受けてまだ数ヶ月程しか経っていないが、今や私は、自他共に「和田大尉の懐刀」としての地位を欲しいままにしていると認めている。だが、そんな物は正直に言ってどうでも良い。和田大尉なぞどうでも良かった。私は鶴見中尉のため、そして私自身のために、この任務を行なっているのだから。
鶴見中尉は私に言った。アイヌの金塊を探すのだと。その資金をかつての戦友たちに還元するのだと。どこまで本気かは分からなかったが、それが「今の」大義名分ならそれでも良いと思った。私はまだ、入隊して日が浅いのだから信用しろと言う方が無理がある。鶴見中尉は猜疑心の強い人間だ。
それに対して肝心の和田大尉はとても操り易い人間であった。直情的で、乗せられ易い。私如きの掌の上でも踊る人形だ。これならば鶴見中尉などが操れば造作も無い事だろうと中尉に進言した事もある。ただ、中尉に言わせると直情的であるが故に面倒でもあるのだ。例えば懐刀に他人の指紋が付くと途端に悋気を起こす。面倒な事この上ない。
そんなぬるま湯のような生活を、数ヶ月続けた頃だろうか。中尉から極秘裏に指令が回ってきたのは。小樽付近のアイヌの集落を探れという指示だ。何か考えがあってのことだろうと思い、尾形上等兵を先遣にした。その日私は偶然にも和田大尉に押し付けられた仕事が残っていたからだ。
これが不味かったのか、二日後尾形上等兵は死に体で帰って来た、と報告が上がった。私が驚いたのは言うまでもないが、もっと驚いていたのが和田大尉である。それもそうだ。元々は私も尾形上等兵も和田大尉の部下である。部下が勝手に怪我をして(しかも死に体で)帰って来たら誰だって驚く。
仕方なく、と言うと言い方が悪いが次に私が鶴見中尉の許へ参じた。一応名目は鶴見中尉の監視だが、そんな物に意味は無いのは火を見るより明らかだ。私は上司同士の争いの板挟みになった、可哀想な新米少尉という訳だ。
ちなみに中尉の許に参じたのはそれ以外にも尾形上等兵の容態を見る意味もあった。私の命で死に体で帰ってくる事になったのだから。意識は無い、と伝えられていたがどうやら私が声を掛けたのと、意識の浮上が丁度重なったようで彼は私の手に三つ程文字を書いた。
ふ じ み
と。
何の事かは分かりかねたが、鶴見中尉に報告をし、尾形上等兵を死に体にした犯人捜しに私も参加しようとすると中尉がにこやかに首を振った。私にはもっと良い役があると。
それがこれである。
「鶴見!」
「あ、和田大尉……」
怒り心頭に発する、烈火の如く、怒髪天を突く。色々な言葉が頭の中を巡る。私という懐刀を勝手に扱った事にも和田大尉は苛ついている。どうやって仲裁しようか迷っていたが、大尉が中尉を撃てと言うのだ。慌てて間に入ろうとしたが、実際に撃たれたのは大尉の方だ。銃声が山間に木霊して、大尉は私の足下に倒れ伏した。
痛みに苦悶の呻き声を上げ、地面に這いつくばった虫けらみたいな大尉が何だか可哀想だった。共に過ごした数ヶ月を思い出そうとしたが、大して思い出せるような事も無く、彼と過ごした日々は無為なものだったのだと気付いた。
鶴見中尉が近付いてきて、そっと肩に手を置かれた。大尉の顔が明らかに強張る。
「みょうじ少尉」
「はい」
「大尉が苦しんでいる。止めをさして差し上げろ」
「…………はい」
役目、と言われた時から何となく理解はしていたが、いざ言われてもあまり感慨は湧かない。拳銃を月島軍曹から受け取って大尉に向ける。大尉が何か叫んでいた気がしたけれど、何も耳には届かなかった。
二発目の銃声も山間に木霊して、すぐに消えてしまった。
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