尾形落ちの後、弟が生まれたら
柔らかく滑らかな髪は男のように短い。白く形の良い手は酷く硬い。白い手の甲より更に白い腹にはしなやかな筋肉がついていた。
みょうじなまえという女はそういう女だった。武勇に名高いみょうじ家の一人娘であり、一人息子。そしてもうじき「姉」であり、「兄」になる。
「わたし、いらなくなってしまった、みたい」
あの日酷く雨の降る肌寒い夜に俺の宿舎を訪れたなまえは本当に冷たくて、頼りなかった。あれだけ他人を、俺を、心酔させるその瞳は昏く濁っていた。この世の何もかもに、彼女は絶望していた。
雪崩れ込むように俺を押し倒して覆い被さるなまえの頬を伝う雫が雨なのか涙なのか、明らかにする必要など無かった。
寒さに震えるなまえを風呂場に押し込めようとするのに、彼女はまるで自罰のように俺を強請った。生娘の癖に。
「おが、た……っじょうと、へっ……!」
色気の無い呼び方で譫言のように俺を呼ぶなまえの名を呼ぶ。なまえ、なまえ、なまえ。何度も。閨の中ですら、お前は「みょうじなまえ」を忘れられないのか。そんなにも、それに縛られて、傷付けられて。
みょうじ家に年の離れた弟御が生まれた事は知っていた。そしてその事がみょうじ家におけるなまえの立場を危うくする事もまた。俺が知っているくらいなのだ。なまえなど、より知っているだろう。そして彼女がその身に科せられた業から解き放たれつつある事も。
「っあ、……っ」
だのに彼女はもう、忘れてしまったのだ。女としてどうやって呼吸すれば良いのか、その方法を。捨てられないのだ。「みょうじなまえ」の生き方を。それしか知らないから。
破瓜の痛みを紛らわすように俺の身体に腕を回し唇を噛み締めるなまえの腹に、薄らと残る傷口をなぞる。盛り上がった皮膚を指の腹で擽るように撫でれば、彼女は身を捩って熱い吐息を溢した。
「わたしを、あわれとおもう?」
熱に浮かされた言葉は上滑りして俺の口内へ消える。舌を絡めて、突き上げて。何も分からなくなって仕舞えば良い。そうすれば今、この時だけは。
ただのみょうじなまえでいられるだろう?
「なを、よんで」
虚ろな瞳から溢れる涙を掬うのに、それは後から後から落ちてきて、なまえの柔らかそうな頬を濡らす。与えられる僅かな快楽と多大な痛みのどちらが、それを誘発したのだろう。なんとは無しに、そう思った。
「なまえ」
「もっと」
「なまえ」
「もっと……」
「……なまえ」
「っ、わたしは、」
私は、
その先の言葉は何だったのだろう。聞きたかったのに、それよりも先になまえが俺に口付けてしまったからその言葉は永遠に失われてしまった。
辿々しく俺の口内を小さな舌が荒らし回っていく。何処でそんな技を覚えてきたんだか。女だったら知らなくて良かった事を、なまえは沢山知っているのだろう。
なまえの小さな身体を掻き抱く。どうかこの小さな生き物が、もう二度とかなしまなければいいのに。柄にも無い。そう思ってしまう程、俺はきっと彼女に骨抜きだ。
「っ、ひゃ、くのすけ……っ」
いつの間にか呼び名が変わっていて、なまえの瞳の奥に欲の色が灯り始めていた。そっと額を合わせてその目を覗き込めば、彼女は眦からまた一つ二つ雫を零した。
「『なまえ』を、ころして」
笑みの形にすら歪んでいるその口端に唇を落とす。答えなど、初めから決まっていた。
「……堕ちるところまで、堕ちちまおうぜ」
そう言って口端を持ち上げれば、なまえが今度こそ笑った気がした。穏やかに、あの、太陽みたいな笑顔で。
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