世界は簡単に崩壊する

音之進が陸士を受験すると聞いたのは、あの事件から数日経ってからの事だった。名家の子息である音之進の誘拐事件。事件解決の陣頭指揮を執った鶴見中尉とかいう男のお陰で音之進は大した怪我も無く無事だった。その事は喜ばしい事なのだが、唯一私の気懸かりがあるとすればそれは音之進がその鶴見中尉とやらに心酔してしまった事だろう。

「音之進、本当にその鶴見中尉とやらは信用が出来るのか?」

「くどいぞなまえ。鶴見中尉は私を救ってくれただけでなく、父との仲も取り持ってくださった」

まるで憑き物が落ちたように晴れやかな顔をする音之進に自分でもよく分からない感情が体の中を渦巻いて行くのを感じる。私では出来なかった事を呆気無くやってのけてしまった鶴見中尉に抱く複雑な感情を、音之進は知ってか知らずか名案を思い付いたと言うように私の手を取った。

「そうだ、なまえも私の家に来ると良い。今日は鶴見中尉が家に来られるのだ」

「え、でも……」

自身にとって大切な人に会わせてくれるという音之進の誘いを嬉しいと思う反面、鶴見中尉に対する警戒心は高まっていく。二つの感情の板挟みになる私は音之進の誘いに確答を返せない。しかし音之進は何があっても私を連れて行くつもりのようだ。結局私は引き摺られるようにして音之進の屋敷を訪れる事となった。

「まあ、なまえくん」

「お邪魔致します」

迎えてくれた音之進の母君に一礼をして「母がいつもお世話になっております」と付け足す。私と音之進が友人のように、私たちの父ら母らも互いに友人同士だった。

「すみません。お宅には客人が来られていると伺いはしたのですが……」

「母上、私がなまえを連れて来たのです。鶴見中尉に会わせたくて」

私を庇うように声を上げる音之進に母君は微笑んで頷く。まるで全てご存知であると言わんばかりの顔に私たちは少しばかり恥ずかしくなって俯いてしまう。それでも音之進は早く鶴見中尉に会いたいようだ。気を取り直したように母君に問うた。

「それで母上、鶴見中尉は……」

「ええ、もう来ておられるわ。あなたが帰って来たら書斎に行くようにとお父様からの伝言もあるわ」

「分かりました!行こう、なまえ!」

「あ、おい、音之進!私もか……!?」

制止する声は無視されて腕を引かれて連れ去られる。一瞬見えた彼の母君の顔は微笑んでいて、ああ、音之進の蟠りは溶けてしまったのだなと私は少しだけ目を細めた。

静かにしかしながらそれでいて軽快に、音之進は彼の父君の書斎へと向かう。幼い頃からお互いの家を行き来していたのだから私にとって音之進の家は勝手知ったる何とやらだ。鯉登閣下の書斎にも兵術の教えを乞うた時に入れて頂いた事もある。だが成長してもうすぐ陸士を受験しようという身で、軍人という同じ立場に立とうとしている今、閣下の書斎に入るのは何となく、腰が引けてしまった。

「おい、音之進。呼ばれているのは絶対にお前だけだ。私は外で待っているから……」

「駄目だ!父上にも挨拶して行け。お前の事を頻りに気にしていたから」

「だが……」

渋る私に業を煮やしたのか、音之進は私の手を掴んだまま(私と音之進では力の差はもう、音之進の方が上だ)鯉登閣下の書斎の扉を叩いた。

「何だ?」

「父上、音之進です。なまえもいます」

「なまえくんも?入りなさい」

退路を断たれた私は音之進を睨みながら居住まいを正す。押し開けられた扉の向こうにはこの部屋の主、鯉登平二閣下ともう一人、見た事の無い男がいた。恐らくこの男が鶴見中尉だろう。

「おお、なまえくん。しばらく見ない間に立派になったな」

「ご無沙汰しております閣下。申し訳ございません、御客人がいらっしゃるというのに……」

父に習った敬礼の作法はもう随分と私の身に染み付いて息をするよりも簡単にこの身を突いて出た。鯉登閣下も満足そうに目を細め、「どうせ音之進が引き摺って来たのだろう」と笑って下さった。そして私の視線が「その男」に向いている事に気付いたのだろう。閣下は一つ頷いた。

「なまえくん、こちらは鶴見中尉殿。いつか君や音之進の上官となるかも知れない方だ」

予想通りの紹介に内心を隠して私は鶴見中尉に向かって敬礼する。

「初めまして、みょうじなまえと申します」

鶴見中尉はまるで値踏みするような目で一瞬私を見た。だが私がその確信を確かな物にする前に、全く人好きのする綺麗な笑みを浮かべた。

「初めまして、なまえくん。君がみょうじの秘蔵っ子か。それに御父君にはいつもお世話になっている」

「私などまだまだ鍛錬の足らぬ青二才です。……中尉は父と関わりがあるのですか」

「ああ、同じ聯隊に所属していた」

思いもよらない私と鶴見中尉との関わりに目を丸くする私に、音之進が羨ましそうに口を挟む。

「なまえばかり鶴見中尉と話していて狡いのだ。私も中尉と話したい」

「あ、ああ……」

不意に、ぞくりとするような背筋の粟立ちを感じて音之進から目を外してそちらに目を遣る。その先には鶴見中尉がいて、だがしかし彼は全くと言って良い程人好きする笑みを崩してはいなかった。

気のせいだったのだろうか。しかしそれにしては、と僅かに目を細めるも結局その感覚が訪れる事はその後は一度も無く、いつの間にか私はその感覚の事を忘れてしまっていた。

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