欲しいものをこの手にする方法を俺に教えてくれる人間は少なかった。だから俺に「手段」は少ない。俺があの人を手に入れる方法なんて。
「尾形上等兵……?どこに連れて行こうというんだ?」
困惑気味の みょうじ少尉の声を背中に俺は彼を先導する。店に話はつけてあった。俺の新しい上官をどうか「もてなして」くれと。
それにしてもこの男は……。前にあれだけ礼を失した言動をされてなお、俺の後をついてくるとは。彼の人の良さに呆れを通り越して僅かに苛立ちすら湧いた。
「ここです」
「……ここ、は?」
俺にしてみたら特別だが、きっと少尉のような品の良い人間からみたら特別にもならない料亭。連れて来られた所が少し意外だったのか、はたまた俺の真意を量りかねているのか怪訝な顔の少尉を引き連れて案内された部屋へと入る。既に綺麗所も待機していて、みょうじ少尉は更に混乱したようだった。
「いや、ちょ、これはどういう……!」
「先日の非礼のお詫びです」
「は、はあ!?」
芸者衆に目配せすれば、すぐに少尉は囲まれて揉みくちゃだ。元々整った見目をした少尉に芸者衆達の方が魅了されているようだった。
「いや、あの……」
「酒と料理も持って来させましょう」
「いや、ただ食べて飲むのにこれだけの女性は要らないの、では……?というか君と私だけで十分な気が」
「…………?みょうじ少尉はお気に召しませんでしたか?」
「気に入るも気に入らないも落ち着かない」
「へえ、……変わってるな。ではお引き取り願いましょうか」
障子を引いて室外を指し示せば、芸者衆は困惑した不満そうな顔で部屋を出て行った。部屋が一気に静かになった。
「みょうじ少尉は潔癖なのですね」
「うん?潔癖というか、ああいった事は確かにあまり学んで来なかったかも知れない」
苦笑を浮かべる少尉の赤い唇が妙に目に付く。無理矢理視界から締め出して、さて何を話そうかと考えを巡らせていた時だ。
「……尾形上等兵は」
押し殺したようなみょうじ少尉の声が聞こえた。顔を上げると彼は少しばかり思い詰めたような顔をしていた。
「君は、というか男というのは、そういう、……つまり、今のような状況を嬉しいと思うのか?」
「………………それは、場合に依るのでは」
突拍子も無い質問につい、考え込んでしまう。言葉が出て来なくて変に焦った。みょうじ少尉は何か口の中で反芻していたようであったが、俺にはそれは聞こえなかった。
「あ、いや……可笑しな事を聞いてすまない。私の周りではああいった状況に陥る事が少なくてな」
容易に想像できる。みょうじ少尉があんな目に遭ったら、彼の番犬である鯉登のボンボンが黙ってなさそうだ。そう告げれば少尉は眉を寄せて苦笑した。
「はは、それは有り得るかも知れない。……音之進は何というか、私より潔癖だから」
「音之進」とそう呼ぶ声音に何処か甘やかさが混ざっているのが妙に耳に付いて離れない。それを掻き消さんと更に口を開こうとしたら、外から声を掛けられた。料理と酒が運ばれて来たようだった。
目に鮮やかな料理に少しばかりみょうじ少尉の顔が明るくなる。それが少し嬉しく思った。
料理を摘んでいると少尉の好みも少しずつ分かった。彼は生魚より焼魚の方が好きとか、酒は余り飲み慣れないとか。
「酒はほとんどしない。……弱いからな」
猪口に一口、口を付けただけで、仄紅く染まる頬がやけに艶かしく見える。それなのに更に酒を勧める俺は随分と良くない。みょうじ少尉も断れば良いものを「じゃあ後一杯だけ」とやるから二時間もすれば彼は完全に前後不覚に陥っていた。
「……少尉、みょうじ少尉」
「ん、おがた、上等兵……?」
机に突っ伏している少尉に声を掛ければ、溶けた目が俺を誘う。これが目的ではなかった筈なのに、つい感情が揺さぶられるのは少尉の纏う雰囲気のせいだろうか。
「誘っておいて何ですが……あまり俺のような者を信用しない方が身のためでは?」
「うん…………?なんの、はなし……?」
その言葉を最後にすう、と完堕ちした寝息が聞こえて来て、少し頭を巡らせる。俺としてはこのままここで二人で一夜を過ごしても良いが。それをするともう二度とみょうじ少尉は俺の目を見てくれなくなる気がした。
「少尉、帰りますよ。俺が背負いますから乗ってください」
「うーん……」
背負った少尉はとても軽くて、俺はその軽さにまた一つ彼の抱える物の重さを知った気がした。
桜の舞う大通りを少尉を背負って歩く。幸い通りには誰も居らず、少尉の醜態を知るのは俺だけであった。
「ん、ここ……」
一定の歩みに振動が伝わったのか、背中のみょうじ少尉が動くのを感じた。それから状況を把握したのかとろりとした声が聞こえる。
「……尾形上等兵?なんで、?」
「覚えているか分かりませんが、俺があなたを酔い潰してしまいました」
「のみ、え……、ああ……。うん、はじめてあんなに飲んだ」
俺が彼を背中から下さないと分かったのか、落ちないようにと少尉の細腕が首に回し直される。抱擁されているようで、変な気分だった。
「……あまり、」
「うん……?」
ふと、声が出た。何を言いたいのか言葉を準備するよりも先に。ざくざくと俺が道を踏み締める音だけが聞こえる。
「…………あまり俺のような手合いに着いて行かない方が宜しいかと」
捻り出したのは愚にもつかない忠告めいた言葉だった。余りにも簡単に、少尉が俺の隣を歩いてくれるから。きっとこの人は他の誰にだって同じ事をするのだろう。
「尾形上等兵は、私の部下だ。私は部下の事は何だって知りたいと思う」
まあ、結果こんな事になってしまったけど、と少尉は笑った。耳許で笑っている少尉の声を聞いていたら毒気を抜かれた、と言うのだろうか。どうしても彼の信頼を勝ち得たいとそう思ってしまうのは、俺が絆され易いのか、それとも彼のカリスマの成す業か。
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