北辰を喪えば

「 なまえ、お前は部下達に心を許し過ぎだ」

常より思っていた事をなまえにぶつけると、なまえは妙にきょとんとした、幼い表情をした。その表情に私が尻込みするのを知ってか知らずか。

「……?どういう意味だろう?心を許し過ぎ、とは?」

「っ、言葉通りの意味だ!明らかに一線を越えているだろう!」

「…………???」

理解出来ないという顔のなまえに苛立ちが募る。彼にこれ程苛立ったのは初めてかも知れないとふと、思った。

「っ、月島軍曹に、…………あの、尾形上等兵に……」

率直になまえとの距離感が近い者の名前を挙げていく。主だった者は最初の二人だが。

「……うーん、普通じゃないのか?皆、何も知らない私にとても良くしてくれている」

「っ、範を示さねば規律が緩んでしまう!!それでなくともお前は…………っ!」

お前は。何を言おうとしたのだろう。口を突いて出そうになった言葉を何とか押し留める。

(それでなくともお前は、周囲を魅了するのだから)

誰にもその存在を知られたくなかった。私だけのなまえでいて欲しかった。そう思うのが間違いだと知っている筈なのに、想いは止まらない。

「っ兎に角!士官であるならもっと弁えるべきだ!心得違いの者が現れる前に!」

「……あ、ああ」

余り納得のいかなそうななまえの顔を上手く見る事が出来ず、無理矢理に視線を逸らして逃げるようにその場を後にする。午後になまえ付きの小隊と合同で練兵があるのを忘れていた事を、この日程悔やんだ事は無かった。

***

なまえと顔を合わせていて、これ程気まずいと思った事は無かった。当の本人はどこ吹く風といった様だが内心何を考えているのかは分からなかった。

「では順当に基本教練から行こうか」

「……ああ」

整列から始まり、行進間動作。私のもやもやとした心中とは裏腹に練兵は驚く程に円滑に進んでいく。なまえの凛とした指示に従って一糸乱れず整列する隊を、私は素直に美しいと思った。

「うん、基本教練は良いな。皆大分身体も温まって来た頃だろう」

満足げななまえの声に僅かに彼の隊の雰囲気が柔らかくなった様な気がして、嗚呼、彼は既に少尉として多くの者に受け入れられているのだと知った。

「今日は……、そうだな、徒手格闘で勝ち抜き戦でもやってみるかい」

「徒手格闘?軍刀術ではなく?」

「確かに先の戦では白兵術が大いに用いられたようだが、やはり最後は対人だ。なんでも鬼神の如き働きをしたそれこそ不死身のような兵士もいたそうだ」

たまの訓練だし、私たちも参加しよう。

その言葉に両隊一度に騒がしくなる。それもそうだ。自分で言うのもなんだが、陸士開校以来の二人銀時計の手並みを見られるというのだから。

早速組み合わせ決めが行われる。遊戯性を持たせる意味もあるのか、まず両隊で勝ち抜き戦をして代表を決めてから決勝戦をする事と相なった。そして。

「つまり私たちが残ったという訳か」

見事に私となまえが勝ち抜いてしまったという訳だ。仄かな笑みを浮かべるなまえは軽く汗をかいているが、着衣に乱れは無く、自分よりも大柄な相手でも軽くいなしてきた事は明らかだった。斯く言う私もそれ程疲労はしていなかったが。

「では決勝戦といこうじゃないか。分かっているな、鯉登少尉。手加減は無しだぞ?」

好戦的な笑み、血の気の上った頬。それが妙に艶めかしい。周囲の雑音が消える。

気付いた時にはなまえが距離を詰めていた。喉元に寸分の違い無く伸ばされた手を躱して肩口を掴む。そのまま勢いに任せて放り投げようとしたのにいとも簡単にすり抜けられる。

周囲の部下の歓声が明滅して聞こえる。なまえの口端が持ち上がっていた。なまえは笑っていた。明らかに高揚している。

彼と組み合う事はたまにあった。勝負は半々くらいであったが、大体いつも、なまえは同じ顔をした。高揚した、攻撃的な表情だ。私はそれを見ていつも思った。

彼は、同じ顔で人を殺すのかと。

なまえがまた近付いては離れて行く。彼と組み合った事は何度もあるというのに、私いつもこの不意に近付いてくる格闘術に翻弄されていた。間を掴みきれないこの感覚が、なまえその物みたいだった。

どうして、すり抜けて行ってしまうのだろう。

寂寥感が募る。なまえの手が眼前に、迫っていた。

「っ、音之進!!」

なまえの声に雑音が一気に戻って来た。頬が熱い。叩かれたのだと、気付いた時には尻餅をついていた。

「手加減するなと言った!!何を呆けているんだ!!」

目の前には明らかに苛立ったなまえが立っていた。部下たちは唐突に始まった上官たちの訓練外の暴行に動揺している。

「私では相手にならないか?見くびるのも大概にしろ!」

ふん、と鼻を鳴らしたなまえは私に背を向けると自身の小隊に指示を出し始める。おずおずと私の周りに集まる私の小隊に漸く立ち上がって指示を飛ばすも、内心は冷え切っていた。

どうしよう、なまえが離れて行ったら、私は。

そればかり、頭の中を巡っていた。

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