宝箱に閉じ込める

銀時計組が口論したらしい。その噂が聯隊を駆け巡る前から、何となくそんな感じはしていた。

まず鯉登少尉の落ち込み様が半端なかったからだ。聞かなくても分かった。何せ彼は非常に分かりやすい。そして次にみょうじ少尉が何処となく尖った雰囲気を醸し出している。これは少し観察しないと分からなかったが、恐らく間違いではないだろう。二人の様子と時期を鑑みて、俺はこの噂は正しいと判断した。

「うん?ちょっとね、喧嘩してしまったんだよ。というか喧嘩ですらないんだがね。ただ意見をぶつけただけ」

俺にそれを問われて何でもないように肩を竦めたみょうじ少尉は疲れたようにため息を吐いた。

「だがそれを君が知っているという事は、既に皆に知れ渡っているのだろうね」

強い光を帯びていた瞳は今は少しまろやかな色をしている。現在みょうじ少尉は部屋に篭って書類と格闘中だ。

「一体何があったのです」

「ただ本気を出せと言ったんだ。音之進が徒手格闘訓練の最中に呆けているから」

事もなげに言ってみせるみょうじ少尉に俺の方がため息を吐きたくなる。ご自身の立場を分かっているのか。

「月島軍曹は今、私が己の立ち位置を分かっているのかな、と思っているんだろう」

「…………ええ、まあ」

みょうじ少尉の「秘密」を知っているのは、恐らく今は俺だけだろう。その秘密が露見する事は即ち「彼」が社会的に抹殺される時だ。それを考えれば、今回の喧嘩とやらは余りに軽率な行動のように思えた。

「分かっているさ。私は秘密を抱えているから、無難な立ち回りをした方が良い事くらい。ただ、それなら誰がみょうじの人生を歩んだって一緒なのでは、と思ってしまうんだ」

みょうじ少尉の表情は、彼が書類に向かっているから分からない。ただ、その声音には諦念が混ざっているような気がした。

「……私でなくても良いなら、私は、」

その先は聞こえない。この人はこうやって、いつも言いたい事を我慢して生きてきたのだろうか。それは少し、憐れむべき事のように思えた。

「さて、今日は午後から休暇を取ろうと思う。家に顔を出さないといけないんだ。だから、月島軍曹も私に構わず君の仕事をすると良い。……お疲れ」

本当に疲れているのはあなただろう、という言葉は飲み込んだ。彼はこちらを気遣うようで、それでいて有無を言わせない言葉口で俺を執務室から追い出した。さて、これからどうするか。

***

「…………はあ、」

「鯉登少尉、手を動かしてください」

「う~~~…………」

これである。同じく上官である鯉登少尉は先程からペンが一行も進んでいない。ため息を吐いたり思い悩むように顔を顰めたり、内省に忙しいようだ。あからさまにため息を吐いてみる。びくり、と肩が揺れて鯉登少尉がバツの悪そうな顔で俺を見た。

「みょうじ少尉と何かあったそうですね」

「…………う、」

「ですが仕事に支障を来たすのは如何なものかと」

「…………返す言葉も無い」

しょぼくれた表情で肩を落とす鯉登少尉がまさか今年の銀時計、双璧の片割れだとは誰も思うまい。肩を竦めて「みょうじ少尉も気にしていましたよ」と告げてみる。気にしていない事はないのだから嘘ではないだろう。鯉登少尉は視線を落とし、ため息を吐いた。

「…………思うのだ」

俯く少尉の目の奥にいるのは「彼」なのだろうか。それとも「彼女の片鱗」なのだろうか。でももし、「彼」の秘密を俺以外の誰かが知ってしまったら、それは少し不愉快な気がした。

「私はなまえが大切だ。だがそれは、きっとなまえの重荷になる気持ちなのだ」

「どうしてそう思われるのです?」

「…………徒手格闘でなまえと対峙して、私はなまえが人を殺すのが怖いと思った。少尉を拝命して、私はその覚悟が出来ていると思っていた。勿論なまえもしていると思う。だが私は怖い。なまえが人を殺すのが。優しいなまえの手が血に染まるのが。私がなまえを大事に想う気持ちは、なまえにとっては枷になるのだ……」

訥々と搾り出される鯉登少尉の感情は、友愛のそれには見えなかった。だが彼にとって「彼」はその対象にはなり得ない。見事なまでのすれ違いに俺は状況の拗れ具合に頭が痛くなってきた。

「……なまえには、言うな。また怒られてしまう……」

「ですが一度腹を割って話す必要があるのでは?このままではお互いのためになりません」

うう、ともああともつかない呻き声と共に鯉登少尉はだらだらと書類整理に戻っていく。この話はこれでお終いのようだ。俺も深入りする事なく、仕事に戻る。窓の外は曇天が広がっていた。夜には雨が降るようだ。

***

「…………え?」

音が消えた気がした。今、私は、何を言われた?

「は、はうえが、ご、懐妊?」

父は喜びを隠し切れない顔で私にそう告げた。母は漸く膨らみ始めた腹を愛おしそうに撫でている。

「それ、は、お、めでとう、ございます……」

口は確り回っているだろうか。この、嫌な違和感は何だ。

「生まれてきた子が男児なら。なまえのこれ迄の苦労も報われる事だ」

「っ、そう、ですね……」

私は笑えているのだろうか。結局の所、私は、みょうじなまえは代用品でしかなかったという事か。

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