鶴見中尉がニシン漁に旅立ってからもう、二日程は経った。最初に聞いた時にはニシン漁?と耳を疑ったが、どうやら先日脱走した不死身の杉元とやらとつるんでいるアイヌの少女と脱獄囚を纏めて捉える目的だそうだ。私自身は杉元に顔が割れている事もあって待機を命じられていたため控えてはいるが特にする事もない。仕方なく私室で大して重要でもない書類に目を通している時だった。
入室の許可も無く扉が押し開けられる。咎めようとそちらに目をやって、少し驚いた。尾形上等兵が立っていたのだ。
「おや、退院したのかい。特に連絡は無かったと思うのだが」
「どうでも良い。行くぞ」
「……?どこに」
私の要領を得ない返事に焦れたのか、彼は私に無遠慮に近付くと当然のように手を掴んで引いた。
「こんな所、出ていくんだよ」
「…………それは決定事項なのかな」
引き摺られるようにして連れ去られる。慌てて机の上に手に持っていた書類を放る。重要でなくとも機密は機密だ。あの書類には私の決裁印が必要なのにな、とどうでも良い事が頭の中で巡っていた。
硬くて大きな手が私の手を強く掴んで離さない。どこにいくのか分からないまま、私はただ引き摺られるように歩いた。こんな時に限って兵舎には人っ子一人いない。まさに目撃者もいない完全犯罪である。
そのまま兵舎を出た私が連れて来られたのは、町外れの荒屋だった。てっきり尾形上等兵の自宅なのかと思い指摘したが、どうやら違っていたようだ。彼は言葉少なに私に幾許かの食料と金銭、代えの服をおくと数日の待機を言い渡した。待機ばかりだ、と肩を竦めたが彼は私の頭を撫でるだけだった。上手く丸め込まれた気がしないでもない。
「鶴見中尉に何も言わずに来てしまった」
「あの人はどうせこれも想定内だろ」
「私は中尉のニシン漁からの帰還を待機するよう命じられていたのに」
不満を露わにするように彼を見上げれば、尾形上等兵は少しばかり不機嫌そうな顔をした。
「あんたには意思が無いのか?」
「意思とは?」
「俺にされるがままだ。抵抗もしない。何も言わずにこんな所に連れて来ても焦る素振りもない」
苛立ちのような感情を感じる。勝手に連れて来た癖に何を言っているのだとこちらも不機嫌を隠さない。
「意思を表出したら君はそれを聞くのかい?そもそも意思があれば入隊などしないな。焦ったところで君が私を解放するとも思えないし」
それ以上会話をする気にはならなくて、彼の物と絡んだ視線を断ち切って窓の向こうにそれを向ける。夜だからか外は冷え冷えとした空気に覆われていた。背後ではため息を吐いた尾形上等兵が家を出ていく気配がした。ご丁寧に閂で扉は閉じられたようだ。逃げる気など無いというのに。
尾形上等兵がどこに行ったのかは知らないが、彼は恐らく鶴見中尉から造反したのだろう。師団内が一枚岩ではない事は最初から知っていた。
私が今するべき事は何か考える。死ぬ気で脱出を図り、鶴見中尉の下に戻れば私はもう一度帝国陸軍人になれるだろう。だがそれに意味などあるのだろうか。私が帝国陸軍に籍を置く意味とは。父母はもう私に期待などしていないだろう。鶴見中尉が私に期待しているのは私の本当の性別についてだ。私の能力に期待している者など。
或いはこのまま尾形上等兵と共に第七師団から造反してしまうという手もあるだろう。そうすればきっと、私の父は怒り狂うだろう。勘当されるかも知れない。そう考えると少し笑えてきた。
思考がぐるぐると同じ所を巡っているのが分かる。なんとも言えない肩の重さが嫌で私は部屋の隅に置かれた申し訳程度の寝台に身体を丸めるようにして寝転んだ。
胎児のように丸くなると幼い頃の事を自然と思い出した。父も母も必死だった。みょうじの名に相応しい「男児」を育てようと。父は私に男児としての全てを与えた。母は私に女児としての全てを忘れさせた。
歪な家族である事は分かっていた。それでもそこでしか生きる事ができなかった。私の弟は、どう生きるのだろう。
(今更何を言っても仕方の無い事だ)
尾形上等兵は私に意思が無いと言った。意思が無いのではない。それを表出するべきでない事を知っているのだ。私が生きるためには敷かれたレヱルを歩く方が楽だった。ただそれだけの事だ。
(…………、)
何を口にしようとしたのだろう。誰に助けを求めようとしたのだろう。何も分からない。分からないから目を瞑った。流されるままどこに行き着くのだろう。音之進の顔が浮かんで消えた。もう随分と、彼と話していない。私がいなくなった事を聞いたら、とても驚くだろうな。もしかしたら失望されて、見放されてしまうかもしれない。
それもまた一興か。どうせ私は紛い物なのだから。
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