初めてなまえの存在を見たのは、隣近所の噂の中でだった。元々小さい村だった俺たちの集落は、余所者が来れば村中の噂になるようなしけた村だった。その中で東京からやって来たなまえの事は格好の噂の種で、彼女が夜寝て朝起きた頃には村中の好奇の視線がなまえに集まっていた。尤も、きっと俺の時もそうだったのだろうけれど。兎も角、なまえは村中の噂になっていたが、その噂の内容は正直に言って芳しいとは言えなかった。
父親はなまえが生まれる前に蒸発しただとか、母親は男狂いの末になまえを捨てて出奔しただとか。凡そ子供には聞かせられないような口さがない言葉を、彼らはなまえの前でも平気で披露した。なまえは何も言わなかった。噂に尾鰭が付いて明らかになまえを中傷するような内容になっても何も言わなかった。ただ、気の強そうな目が大人たちを時折睨み付けていた。大人たちはそれを見てまた彼女を悪し様に罵った。彼女はこの村で独りだった。
最初の内、俺はなまえに近付こうとは思っていなかった。なまえは明らかにこの村では浮いていたし、俺もそれ程この村に馴染んでいる訳ではなかったからだ。それでも俺がなまえと初めて言葉を交わしたのは、彼女が養母から折檻を受けた時であった。この頃になると、俺もなまえの家庭事情がどんな物だったのか理解が及ぶようになっていた。東京で売れない小説家をしていたなまえの父親はなまえが生まれるよりも早くに他所の女と心中したらしい。なまえの母親とその後夫はなまえを育てられる程の責任感は無く、止む無く彼女は親戚の家に預けられたという事だった。
なまえの養親は彼女の母親の姉家族だった。娘ばかり三人の子供がいて、どの娘も皆底意地の悪そうな顔をしていた。親も親でなまえには辛く当たっている印象だった。朝は誰よりも早く起きて飯を作り、夜は誰よりも遅くまで残って掃除をしているなまえには粗相一つ許されなかった。俺が見ている数少ない機会でもなまえはいつも養親に打たれていた。
ある時なまえが体調を崩して寝過ごした日、彼女の養母は怒り狂って彼女を外に放り出した。冬の寒い日に、裸足で。がたがたと震えながら雪の降る中立ち竦んでいるなまえを見るに見かねた俺が彼女を家に呼び寄せたのが全ての始まりだった。困ったように玄関先で髪を湿らせ白い息を吐きながら立ち往生しているなまえに俺は声をかけた。
「入れよ」
「……ん、でも、怒られちゃうから」
「でもお前このままだと死んじまうぞ」
蒼白な顔で下を見たなまえから伝わる確かな怯えを俺は面倒だと思った。折角わざわざこちらが提案してやったのに。
「取り敢えずこれで髪拭けよ」
適当に取って来た手拭いを押し付けるようにしてなまえに渡せば、彼女は目を瞬かせてそれからか細い声で礼を言った。
「ありがとう、……百之助、くん」
「百之助でいい」
「……ん、百之助、」
沈黙が重い。なまえは相も変わらず上がり口を動こうとしない。その肩が小刻みに震えているのを見て、俺は髪の湿り気を拭っている彼女の細い手首を掴んだ。
「……何」
「怒られたら俺のせいにして良いから兎に角入れよ。玄関で凍死されちゃ寝覚めが悪い」
「え、ちょっと……!」
雪崩れ込むように俺の部屋になまえを連れ込む。思えば女を部屋に連れ込んだのはこれが初めてだった。兎に角、俺は冷え切ったなまえに俺の着ていた羽織を被せてやる。最初は固辞していたなまえもやはり寒かったのか、最終的には小さく呟くような礼を口にして俺の羽織に包まった。
そのまま暫く沈黙が続いた。手拭いを被っていたなまえの髪は大分湿り気も薄らいで来たようだった。それでも彼女は手拭いを被ったままだった。
「なあ、」
沈黙を破ったのは俺からだった。膝を抱えて寄る辺無く蹲っているなまえを見ていたら、ふつふつと湧いて来たのだ。怒りにも似た疑問が。
「何でお前は抵抗しないんだ」
なまえは不思議そうな瞳で俺を見たが、俺が視線を返し続けると一転、僅かに思案顔をしてから口を開いた。
「……私のお母さん、余り身体が強くなくて、伯母さんに薬代を出して貰ってるから、かな」
諦めにも似た声音が転がった。火鉢の炭の熾る音がぱちりと聞こえて、なまえは暖気を吸い取らんとするかのように、それに手を翳した。
「……母親が、そんなに大事かよ」
「大事っていうか、『見て貰いたい』っていうか……」
「見て貰いたい?」
俺の鸚鵡返しに一つ頷きを返したなまえは少し遠くを見るように目を細める。
「私が伯母さんの家で働く代わりにお母さんの薬代を援助して貰ってるんだ。お母さんは私に余り興味が無いみたいだったけど、お金を稼いだら少しくらい、私の事、見てくれるかなって……」
尻すぼみに小さくなっていくなまえの声に俺はぎゅうと、感情を握られたような気がした。「見て貰いたい」その感情はかつての俺を見ているかのようだった。今も目を瞑れば思い出す、母の頼りない後ろ姿。俺は初めて見付けたなまえとの共通点に存外の興味を唆られた。
「……そうかよ」
「うん……、そう、だね」
「……お前の、」
何と言って良いか分からなくて一度言葉を切った俺を不思議そうに見るなまえの強い瞳の色が俺の心臓を上擦らせる。
「何、?」
「……何でもない。親は勝手だよな」
「うん?……、そうだね。本当は思うよ。私独りで生きて行けたら良いのにって」
諦めたように笑ったなまえの髪はもう十分乾いていたけれど、俺は堪らなくなって膝立ちになり、彼女の髪に掛かる手拭いを取った。
「……百之助?」
「まだ濡れてるだろ。ちゃんと乾かせ」
「……うん」
力加減も出来ず彼女の髪を乱していく俺に手拭いの下から聞こえた小さな礼の声を、俺は聞こえない振りをした。か細く震えるその声に、何と言って良いのか最後まで分からなかった。
コメント