前夜

呼び出された時に、その理由に心当たりが無い訳ではなかった。なまえに何も告げずに決めた入隊するという選択も、その選択の結果が明日に迫っているという事も全て、俺が自分で選んで、自分で決めた事だった。それでも、きっとなまえは裏切られたと感じてもおかしくはなかっただろう。彼女がこの息苦しい閉塞感しかない村に来てからもうずっと、俺たちはたった二人、お互いだけが理解者だったのだから。だから俺は今夜、なまえが何を言ったって、したって、それを甘んじて受け入れようと思っていた。

「なまえ、」

呼び出されたそこは俺たちには馴染みの場所だった。村の餓鬼連中も大人たちも知らない俺たちだけの秘密の場所。季節柄、蛍の飛び交うそこに佇むなまえの背中は綺麗で、昔から顔貌だけは整っている娘だとは思っていたけれど、美しい女に育ったなあと年寄り臭い感慨を俺は呑み込んだ。

「……百之助」

彼女の名を呼んだ俺の声に振り返ったなまえの何時もより低い声に苦情が漏れる。普段から感情を露わにしないなまえには珍しく、彼女は不機嫌なのだと知って。当然と言えば、当然なのだが。

「……んだよ、何か怒ってんのか」

それでもこちらから謝るのは何か違う気がして、俺は空惚けてなまえに問うた。仕方ないんだよ。俺だってお前と別れるのは本当は。

「……怒って、ないよ」

「嘘付け。何時もより声が低いんだよ。怒ってんだろ」

「怒ってないってば。……百之助こそ、困ってる」

「は、?」

そう言われて感情がすとん、と収まったように思った。困っている、嗚呼、確かに。俺は確かに困っている。俺の来し方を探したいという思いとなまえを残して行けないという思いとに板挟みになって。

「そりゃ、最初はちょっとだけ、怒った」

「やっぱり怒ってんじゃねえか」

「最初だけだってば。今は、寂しい。凄く、寂しい」

いつも頑なな程に己の感情を露わにしないなまえには珍しいくらいに正直な言葉に俺は面喰らう。俺の選択はそれだけ大きかったという事か。なまえは俺の感慨には気付かなかったのか、地面を弄る己の爪先を見ていた。

「なあ、」

遠くで聞こえる俺自身の声に、俯いていたなまえが顔を上げる。しかし声を出したのは良いものの、俺は何を言って良いのか言葉を見失い、そこには沈黙だけが広がった。俺の言葉を促すように小首を傾げたなまえを、俺は誤魔化すように抱き締めた。見失ってしまった言葉を見付けられない今、出来る事はそれしかなかった。

「百之助……」

「お前を、置いて行きたい訳じゃねえんだ」

言いたい事も言える事も沢山あった筈なのに、実際に言えた事はたったそれだけだった。それでもなまえは受け入れるように俺の背に手を回した。それは素直に救いだった。

「……分かってるよ。百之助と私は、一緒だけど、違うんだから。何時迄も、一緒にはいられない」

それは純然たる事実であった。俺たちは確かに二人で一つだった。きっと俺にもこいつにも、お互いがいなければ今迄生きては来られなかっただろう。いつかなまえが言った双子星の俺たちは、今初めて別々の道を歩もうとしている。

「一人で、大丈夫か」

「……それはこっちの台詞だよ。寂しくて泣かないようにしなよ」

憎まれ口に僅かに感情が晴れる。まだ、そんな口を利くだけの感情の余裕がなまえにある事を知って。

「お前こそ、俺がいないからって夜中にふらふら徘徊するなよ」

「私は徘徊してるんじゃなくて、百之助に呼び出されてただけだけどね」

くすくすと、小さくて控えめな笑い声。嗚呼、最後にこいつの笑い声が聞けて良かった。そう思って俺はなまえを開放しようとした。でも、俺の背に回ったなまえの手は俺を解放してはくれなくて。

「なまえ……、」

「百之助、兵隊になるんだよね」

「……ああ」

以前一度だけ告げた事実を再度噛み締めるように確認したなまえの腕の力がぎゅう、と増す。離さないと言わんばかりのその腕の力に、俺は名残を残したくもないのに、再び彼女の身体を腕に馴染ませた。

「苦しいよ」

「知ってるよ」

「……渡したい物があるんだ」

静かな夜の空気になまえの声が微かに響く。ごそごそと腕の中で蠢いたなまえは俺の顔を見上げてそっと何かを差し出した。

「これは、」

「……御守り」

拙い針仕事。なまえは針が苦手だった。それは不恰好な御守りだった。それでも拙いながら随所に刺繍が施されていて、一朝一夕で出来た物ではない事だけは窺えた。

「なまえ……」

「百之助には、怪我して欲しくない。百之助が危ない目に遭わないように願いを込めながら縫ったの……」

大きな瞳に一杯涙を溜めながら、なまえは俺の胸に顔を埋めた。俺は何も言えなかった。ただ、俺たちの生まれがどうしてこんなにも幸せとは程遠い所にあったのか、その事を呪うだけで精一杯だった。

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