子供のままではいられない

それからまた、月日が流れた。俺は大人になるにあたって世の不条理を知り、幾つかの夢を断念することになりそうだった。例えば絵の学校に進む事とかを。勿論それは俺の家の傾き加減を考えれば分かる事だった。生きて行く上で、必要の無い事程金が掛かるのは世の理であった。

それに絶望しなかった訳では無い。遣り処の無い怒りを何処にぶつければ良いのか分からない程には。俺は理不尽を恨み、自由に憧れた。けれども自由に跳びつける程、俺は勇敢ではなかった。ナマエとの手紙のやり取りも、その頃は彼女が俺の村を訪れる日取りを知らせるだけの物となっていた。

だが、手紙に記されていた日に、ナマエは俺の村へは来なかった。今までだって予定が前後する事はあったけれど、これ程に遅れた事は無くて、それが俺にとってそれが歓迎すべき事でないことはあの暗い暗い夜の日から変わらない数少ない事柄の一つであった。

ナマエが予定通りに俺の村へと来る事が出来なかった日は、俺はいつも眠れなかった。ただ予定が遅れているだけなら良いけれど、もし何かに巻き込まれていたら?俺が絶対に喪いたくない数少ない一つを奪われてしまったら、そう思うと俺は怖かった。貧しい家の生まれの俺は近々軍の学校に行く事が決まっていた。入学のための試験を一番の成績で通過した俺を村の皆は誇ってくれたけれど、俺はそんな人間ではない。たった一人、喪うのを恐れているのだから。

眠れなくて、起き上がる。幼子のように温めたミルクでも飲むかと炊事場に行こうとして俺は聞いた。犬を駆ける凛々しい、でもまだ少し幼い声を。数年前からナマエの父親は身体を壊し、行商の大半はナマエが行うようになっていた。

「ナマエ!」

着替えるのも億劫で寝間着のまま家を飛び出す。珍しく凪いでいた銀世界に深い跡を刻みながら、ナマエが犬橇を駆けて来るのが見えた。柔らかそうな白金色の髪も、灰色の瞳も何も変わっていなかった。ただ、いつもと違うことがあるとすればそれは。

「ヴァシリ……」

ナマエの目が赤く腫れていた事だろうか。それとも彼女の服がまるで喪服のように黒い事だろうか。いつもは少女らしい色鮮やかな服を纏っていたというのに。

「ナマエ?どうし……」

「お父さん、死んじゃった」

堪え切れなかったように零れた雫がナマエの頬を濡らす。それが冷たい月光に照らされて、まるで鋭利な刃物のように見えた。感情を抉るようなその光に、俺は何と言って良いのか分からなくてただ、「そうか」と阿呆のような返事しか出来なかった。

「お葬式をしていたら、こんなに遅くなってしまったの。本当に、ごめんなさい」

「いや、良いんだ。それより、中に入ろう。ここは冷えるから」

冷たいナマエの手を引いて、俺は家の中に入った。老いた両親の眠りは深く、きっと俺たちの立てた物音には気付かなかっただろう。俺はナマエを炊事場の椅子に座らせて、二人分のミルクを温めた。その間俺もナマエも何も言わなかった。

ゆっくりと鍋の中のミルクをかき混ぜる。薄く膜の張ったミルクは俺がかき混ぜた事で滑らかな液体に戻っていく。ナマエはぼんやりと宙を見つめていた。やがてほんのりと湯気の立つミルクを二人分のカップに入れて、俺はナマエに向き直った。

「ナマエ、飲むんだ。身体が温まるから」

「……ヴァシリ」

そっとナマエにカップを持たせると、彼女はほう、とため息を吐いた。知らぬ間に寒さが身に応えていたらしい。それからカップに静かに口を付ける。小さな喉が動くのを見て、俺もカップに口を付けた。熱すぎず冷た過ぎない温度が喉から胃に落ちていくのを感じながら、俺はナマエの顔を見つめた。

俺もナマエも、大人になった。大切なものをなくして、それでも生きて行かなければならなくなったのだ。いつまでも子供のままではいられないのだ。

「……ナマエ……」

「ヴァシリ……、」

俺が名を呼んだ事で、ナマエも鸚鵡返しのように俺の名を呼んだ。もう一度俺は彼女の名を呼んだ。彼女も俺の名を呼んだ。そして俺はまるでそれが当然の帰結だと言うように、言葉を紡いだ。

「一緒になろう、ナマエ」

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