宵闇

また、やられた。夜の内に新鮮な死体の出来上がりだ。手口はいつも通り、残忍でそれていて鮮やか。医学に長けた者の犯行でまず間違いない。そして傍らには勿忘草。まるで我々を嘲笑うかのような蛮行に鯉登少尉の苛立ちが手に取るように分かる。

「…………っ!昨晩の目撃者はいないのか?」

「ええ、どうやら我々の一瞬の隙を突いているようです。聞き込みもしましたが、梨の礫のようで」

感情を押し込めるように拳を握り締める少尉に目を細める。焦り、苛立ちは余計な雑念を孕む。全くと言って良い程手掛かりの無い現状を憂いるのは分かるが、少尉の平静を保たせる必要があると思った。

「兎に角、一先ずは情報収集に専念するしかないでしょう。この辺りを定宿としている者を何人か挙げています」

「そう、だな。先ずは、この辺りの者に話を聞くしかないな」

焦燥が声に表れているのを、少尉が押し込めようとしているのが分かる。険しい顔で現場に背を向けた少尉の後を追う。

「旦那さま方、奥さま方、お花は如何でしょう……」

薄暗い裏路地から昼下がりの表通りに出るとそこには花売りがいた。ぞっとするほど無表情なのに、何処か惹き付けられるその横顔を見ていると、鯉登少尉が彼女に近付いていくのが見えた。咄嗟に引き止めるより、少尉が娘に声を掛ける方が早かった。

「鯉登しょう、」

「また会ったな。私の事を覚えているか?」

「…………あら、あの時の将校さま」

女の昏い瞳が鯉登少尉を視認し、その瞳孔が拡がった、ように見えた。見えただけで気のせいかもしれないが。

二人は知り合いだったようで、少尉は薄く笑って娘に二言三言声を掛けていた。娘は笑っているのかいないのかよく分からない表情を浮かべて鯉登少尉を見ている。薄い色の瞳に、夕方の陽光が差して輝きを増していた。

「お勤めご苦労様でございます。……お花は如何ですか?そちらの軍人さまも」

営業用の微笑とでも言うのだろうか。女は虚無の顔を薄い笑顔に変えて手元の花籠を指し示す。文目や鈴蘭、木蓮など色とりどりの花が並ぶ花籠にひっそりと、しかし確かに主張している花があった。

「勿忘草……」

俺の苦々しい独り言に気付いたのか女は目を細めた。まるで嘲笑しているかのようなそれに感情が騒めく。しかし女は俺の感情の漣など全く意に介さなかったようで、微笑と呼べるものを顔に貼り付けて口を開いた。

「……ええ、わたくしの一番好きなお花でございます。…………勿忘草といえば、『また』人が殺されたそうですね」

「不甲斐ない。お前も気を付けろ。彼奴めは必ず私たちで捕える」

力強い鯉登少尉の言葉に女は間違いなく笑みを深めた。しかしそれを確かに確認する前に彼女は表情から感情が消えた。

「力強いお言葉……、有難う御座います。将校さまたちがいらっしゃるから、わたくしたちは安心して暮らして行けます」

「うむ!お前の事は必ず守ろう!」

「とても、頼もしいです。…………将校さまはどのお花が好きですか?心ばかりですが、わたくしからの気持ちです」

「ふむ?悪いな。私は菫が好きだ」

まるで俺だけが置いて行かれたような奇妙な感覚だった。「嫌な予感」とでも言うのだろうか。目の前には前途有望な将校とやや陰気ではあるが見目麗しい女が並んで立っているだけだ。それなのに。

(どうにも座りが悪い……)

花籠から菫を二、三本取り出し、何処からか取り出した飾り紐でそれを纏めていく手際は実に見事だった。良く動く手は滑らかで傷は見られない。「刃物を扱う」手には見えなかった。

(っ、)

ぶるり、と首を振る。まさか、こんな娘に出来る筈がない。鮮やかな手捌き、凄惨な現場、人間だったとは思えない程に原型を留めない死体。ただの花売りになど。

鯉登少尉を見る。少尉はこの娘の事を警戒してはいないようだ。年相応の顔で瞳で娘を見ている。まるきり、普通の男のようだった。先程までの苛立ちは少なくとも隠せる位には平静さを取り戻していると言ったところか。

「もう、暗くなる。家まで送ろう」

「まあ、お仕事があるのでは?」

「大丈夫だ。無辜の民を守る事も私たちの仕事だからな」

空を見上げる。少しずつ、日が翳っている。傾いた太陽は家々の軒先にその縁を掛けていた。

「では月島、先に戻っていてくれ」

「…………分かりました」

目配せするように俺に声を掛けた鯉登少尉の思惑は正直な所分からなかった。あの娘に想いを寄せたのだろうか?

俺の横を擦れ違う、娘の羽織っていたショールから花の香りと共に錆びたような臭いがした気がした。咄嗟に振り返ったけれど、それは確信には至らず、苦々しい思いを抱えながら俺は情報収集に戻った。

再度少尉の背を追うと、彼は人混みから娘を守るようにその肩を抱いていた。まるで仲睦まじいその様子に、要らぬ焦燥が湧いた。杞憂であれば良いのだが。

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