泣いていたなまえを漸く落ち着かせた頃には日が大分傾いていた。もう鼻も鳴らさなくなったなまえはそれでも、まだ少し目を赤くしてぼんやりと、川のせせらぎを眺めていた。俺はそんな放心したなまえの手を、握っているしか出来なかった。水のにおいが俺たちの呼吸を掻き消しそうになって、俺は何故か急に怖くなってなまえの手をぎゅう、と握った。
「……百之助?」
「……悪い。何でも、無い」
不思議そうに、俺の顔を見つめるなまえの瞳は濡れていて綺麗だった。この世の、何よりも。
「……帰ろう」
濡れた瞳を三日月に歪ませて、なまえは笑みとも何とも取れない顔をした。ずっと、ここにいたい。時が止まってしまえば良いのにと思っているのは俺だけではないようで、俺は秘かに安堵した。この感情に釣り合いが取れていなかったとしたら、俺はそれが心配でならなかった。俺たちはどちらからともなく立ち上がって、家路についた。握り合った手はそのままだった。
道中、言葉は無かった。そんな物、必要無かった。俺たちはまるで二つで一つの個体だとでも言うかのように、握り合った手を離さなかった。そこにはただ、現実に戻る時の憂いだけが残されていて、俺は俺たちのどうしようもない呪いを恨んだ。
「百之助は、優しいね」
なまえの家の前に着いて、俺たちがまた別の個体に戻る時、彼女はそう言って儚く笑った。俺は俺の事しか考えていないだけなのに、そう言い返そうとして、やはり喉が張り付いたように痛んで何も言葉にはならなかった。
俺の中にはもう、確信とも呼べる何かがあった。俺となまえはよく似ていて、彼女ならば、俺の事を理解してくれるのではないかと言う確かな想いが。皆が寝静まった、ただ広いだけの家の片隅で俺はなまえの家の方角に面した窓に寄り掛かって彼女の事を想った。なまえはもう、寝ただろうかと想像して、彼女の夢に俺が出て来ればいいのにと願った。
誰も彼女の眠りを妨げなければ良いと思った。俺の夢に、なまえが出て来れば良いと。世間が俺たちを、放っておいてくれれば良いのに。
でもそれは、こんな糞みたいな村では所詮叶わない事なのだ。特になまえは反抗しなさそうな見た目からかよく標的にされた。困ったように悲しそうに笑うだけのなまえが俺たちの秘密基地で泣いているのを俺は知っている。
そして俺の感情が決壊するのは、存外に早かったと思う。
それは雲が重く垂れ込めた、少し肌寒い日だった。春の日差しが翳って、風が吹くと鳥肌が立つような。いつものようになまえを誘おうとしていた俺が見た、それが俺の堰を切った。なまえはまた近所の餓鬼に揶揄われていた。と、言えば聞こえは良いが肌寒い日に水をぶっかけられているのを見て、俺が何も思わない訳が無かった。
気付いた時には、手が出ていたのだと思う。俺は貰われた子供で、その手前一応品行方正でいなければとか、祖父母に迷惑は掛けられないだとかいろいろ考えて己を律していた部分があった筈なのに、本当に気付いた時には俺は目の前の餓鬼を殴り付けていた。殺しても良いとすら、思った。俺はただひたすらに「俺たちを虐げる敵」に対して拳を振り下ろし続けた。その中にはきっと、両親への呪詛もあったに違いない。どうして俺を「まとも」にしてくれなかったのかと。
「……っ百之助!」
唐突に腕を取られ、振り払おうとして背中に鈍い温もりを感じた。それはなまえのいつもより低い体温で、俺は漸く我に返った。なまえは俺を抱き締めて、泣いていた。
「……なまえ」
「もう、止めて……!このままだとっ」
なまえが何を言わんとしているのかは分かったけれど、滴る水に震えている彼女が何を言ったって説得力は無い。思い出したように俺は纏っていた羽織を彼女の肩に掛ける。触れた頬は冷たくて、氷のようだった。どうしてお前が、俺たちが、我慢する必要があるというのだ。
「俺はお前が……!」
何を言いたかったのか、それは言い訳なのか或いはもっと別の何かなのか、俺は反論する気も失せてただ、阿呆のように突っ立っていた。なまえは優し過ぎる。どうして俺たちを虐げる奴らに、俺たちが耐えなければならないんだ。
「分かってる……。でも、これ以上やったら、百之助に迷惑が」
「良いんだよ……。俺の事なんかどうだって良い……!」
「良くないよ!」
軽い、俺の物に比べたら何杯も軽い衝撃が頬に走って、また、抱き締められた。頬を張られた事よりも、なまえが泣いている事の方が衝撃的で俺は反射的に彼女を抱き締め返していた。
「百之助が悪く言われるくらいなら、私はどんな事をされたって良いよ」
「……馬鹿、もっと、もっと自分を……」
大切にしろ、なんてそんな当たり前の事をどうして言わないと分かってくれないんだ。
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