俺の言葉に沈黙は破かれ、そしてまたそれは辺りを支配した。ナマエは俺の方を見つめていた。目立った動揺は彼女の顔には現れなかったが、それはただ、彼女に許容量以上の驚きを俺が与えてしまったせいかもしれなかった。
「ヴァ、シリ……?」
ナマエの震える声が俺の耳朶を打つ。彼女の、ナマエの頬を透明の雫が伝った。ナマエは泣いていた。
「ナマエ……?」
「ううん、何でもない、よ。何でかなあ、涙が零れちゃうんだ……」
ミルクの入ったカップをテーブルに置いて、音も無く泣いているナマエに俺は近付く。ナマエの手からもマグカップを受け取って傍に置いた。ナマエは俺の顔を見て零れた涙を拭う。拭った端からその白くて細い指先を雫がまた濡らした。
「…………ナマエ」
泣いているナマエを抱き締めても良いのか迷って、俺は彼女に触れるか触れないかのところで手を彷徨わせる。ナマエはそんな俺を見つめて微笑んだ。泣きながら。
「ヴァシリの事、好きだよ。でも今は何も考えられないんだ」
「それで良い。俺はナマエがいればそれで良いんだ。手紙を書く。落ち着いたらで良いから、読んでくれると嬉しい」
今度は迷う事なく俺はナマエの頬を撫でる事が出来た。ナマエの白くてまだ冷たさの残る頬に触れて、髪に触れて、彼女を引き寄せる。情愛の、と言うよりかは親愛の抱擁のようなそれに、ナマエはやっと、嗚咽を零し始めた。
「ごめん、ごめんね、ヴァシリ……、弱くてごめんね。お父さんにも、『泣くな』って、言われたのに……っ」
「良いんだ。辛い時は俺を頼れ。俺には、これくらいしか出来ない」
おずおずと俺の背中に回るナマエの腕に、心臓が少しだけ早くなった。
「ヴァシリが、私の幼馴染でよかった……」
ナマエの涙と共に零れた言葉は、俺がナマエに伝えたい事そのままだった。俺は何も言わなかった。ただ、ナマエの身体を強く強く抱き締めて、朝が来ない事を願った。
朝が来て、また夜が来たらきっとナマエは泣きたい気持ちを押し殺してまた、この村を発ってしまうに違いないから。
「ナマエ、次は何処に行くんだ?」
「え……?えっと、今回はあまり仕入れが出来なかったから、この村の隣村に行って、また私の村に戻るよ」
俺の突飛な問いに首を傾げながらもナマエは答える。その間だけ、少し涙を忘れた彼女の額に俺は思い切って唇を落とした。
「俺も、連れて行ってくれないか」
「……それは」
「ナマエを、独りにしたくないんだ」
俺の腕の中で、少しだけ、ナマエは悩む素振りを見せた。それでもきっと、俺は彼女が何と言おうとついて行くつもりだった。ナマエもきっと俺の気持ちを分かっていたのだろう。困ったように、頷いた。
「でも、大丈夫、なの?」
「平気だ。俺はもうすぐ軍の学校に行くから、家の仕事も弟達に任せているんだ」
「そう……」
軍の学校、と聞いたナマエは少しばかり目を伏せる。長い睫毛が揺れるのを、俺はじっと見ていた。
「じゃあ明日、ヴァシリのお父様にお話ししよう?」
赤い目のままで、少しだけ広角を持ち上げたナマエに、俺の顔はどう見えただろう。無愛想だと村の人間に言われるばかりの俺は、笑ったつもりだったけれど、ナマエにはそう見えただろうか。
「今日はもう、遅いから寝た方が良い。悪いが客間まで掃除の手が回らなかったんだ。嫌かも知れないが、俺のベッドを使ってくれ」
ペチカで暖めたばかりの自室は部屋の主が居なくても暖かいままだろう。ナマエの肩を抱いて俺の部屋へと案内する。ナマエは俯いてその表情は定かではなかったけれど、拒否する事も無く俺に誘われるままについて来た。
「ここだ。着替えたければ棚の二段目の引き出しに洗ったばかりの夜着があるから取り敢えずそれを着てくれ。もしバーニャが必要なら」
「ヴァシリ」
俺の部屋の前で、ナマエは少しだけ視線を上げて俺を見た。灰色の瞳は悲しみに溢れていて、俺は居た堪れなくて彼女の手を握るしか出来ない。
「何も要らない。傍に、居て」
囁くような彼女の言葉に俺は頷いた。きっと俺もナマエの父親を喪って悲しかったのだ。父親でも友人でもないけれど、幼い頃からの知己を喪って。
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