それから後のことを、実は俺はよく覚えてはいなかった。嵐のように時間が過ぎて、気付けばクソガキを半殺しにしてから三日経っていた。
その間俺が何を言われたのかについては割愛しよう。どうせ碌なことではないからだ。それよりも気掛かりだったのはなまえのことだ。俺がどう言われてもそれは俺のせいだから構わない。だがもし。もしなまえが俺の軽率な行いのせいで何か言われているのだとしたら。俺にはそちらの方が堪えられそうになかった。
彼女は、なまえは、やっと出来た俺の。
ふ、と意識が昇ってきて俺は目を開けた。そこは俺の家の離れであった。あの事件以来祖父母は俺を更に遠ざけるようになった。部屋も手狭になったろうという、薄っぺらい有難い言葉と共に、俺の世界からまた人が消えた。
それは別にどうだって良かった。特にじいちゃんとばあちゃんには俺は散々迷惑を掛けているのは分かっていたから。追い出されないだけマシなのだから。
それよりも、なまえのことが気になった。あの日以来、俺はなまえ会っていなかったから。何をしているのだろう。虐げられていないだろうか。彼女のことを脳裏に描くと途端に彼女しか見えなくなる。嗚呼、会いたい。会って確かめたい。その笑顔を。
そう思い立ってから、決行は早かったように思う。俺たちはもう、秘密を共有しているのだから。待っていればいつか。俺は彼女が来るのを待った。そしてその日は存外すぐにやってきた。
彼女を俺たちの秘密の場所で待ち始めてから三日。つまり俺が問題を起こしてから六日が経った日の夜。川縁の大樹の幹に身体を預けていた俺の耳に、川のせせらぎとは異なる音が聞こえた。
「百、之助……?」
その声はか細かったけれど、紛うことなくなまえのもので、俺は気持ちゆっくりと身体を起こして、彼女に向かって片手を上げた。
「……よう」
俺を視認したなまえはほっとした顔も束の間、眉を寄せて俺に駆け寄ってきた。
「あの、大丈夫、だった?何か非道いことされていない?ごめんね、私のせいで……」
続け様に放たれる俺を案ずる言葉に、それは俺の台詞だと、言いたかったけれど言えなかった。でも何も言えないままなのは癪で、俺はせめてもとなまえの柔らかな髪を梳くように撫でた。
「百之助……?」
「俺は平気だ。何にも変わってねえ。むしろお前はどうなんだ?」
「……平気。家の人たちも逆に怖がって私のこと無視するようになった」
困ったように笑うなまえではあったが、反面その顔には晴れやかな笑みが浮かんでいて、その顔を見れただけでも、俺のしたことは間違いではなかったのだと思った。
「そうか。……良かったな」
「うん……。ありがとう、百之助……」
囁くような礼の言葉と共に、なまえは僅かに開いていた俺との距離をゆっくりと詰める。半身に感じるなまえの熱に途端に心臓が上擦るように跳ねる気がした。
「でも」
不意になまえの声がして、俺は隣を見た。予想外に近い俺たちの距離を他人事のように感じながら、俺はなまえの言葉を待った。なまえは迷うように何度か口を開閉させた後、呟く。
「……私と一緒にいると、百之助が悪く言われてしまう」
膝を抱えるようにして、流れる川のせせらぎを聞いているのだろうか。その身体が随分と頼りなく見えて俺はなまえの肩をそっと抱いて引き寄せる想像をした。
「私は良いの。何言われたって、本当のことだから。……でも、百之助は違うもの。私のせいで優しいあなたが悪く言われてしまうのは、嫌だ」
自身のつま先を見ながら拙い言葉を吐くなまえの肩を、俺は今度こそ抱いて引き寄せる。不恰好で野暮ったい抱擁でも気にするものか。俺は。俺たちは。
「……お前こそ、俺といると色々面倒なんじゃねえの。俺が村の奴らに何て言われてるかも知ってんだろ」
口にしたなけなしの意地はなまえには通用しなかったようだ。彼女は笑った。美しく、そして悲しく。
「知ってる。でも、そんなの関係ない。私は百之助がいて良かったと思ってる。でもだからこそ私のせいで……」
「だからそういうことだよ、馬鹿。俺も、……お前と同じって、ことだ。……俺たちはさ、似てるんだよ」
照れ臭くなってなまえの顔が見れない。心臓が変な具合に上擦っていた。それは鳥撃ちの興奮と少し似ているような気がした。
なまえもなまえで何も言わないから辺りを変な静寂が支配する。心臓の音が身体の外まで聞こえそうで俺が軽く咳払いをした時だった。
ふわり、となまえの香が香って、それから肩が重くなった。柔らかな重みがなまえのそれと知るのに時間はかからなかった。
「……わたしたちは、にているね」
少し眠そうな、蕩けた声が俺の脳髄を痺れさせる気がした。その後、俺は何と言ったのだろう。ただ一つ覚えていたことは、なまえの「百之助がいて良かった」という、その一言だけであった。
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