それは空を灰色の雲が覆い尽くす、憂鬱な昼下がりであった。私が「彼女」を見付けたのは。物憂げな瞳で手には色取り取りの花籠を持ち、ただ街角に立ち尽くすその少女を、実に多くの男が見ていた。
美しいと形容するのは陳腐過ぎて、しかしそれ以上の言葉を重ねても嘘臭くなってしまいそうで言葉を並べられない。彼女は明らかに他の人間とは一線を画していた。一見すれば陰気に見えそうな物憂げさも、その少女のそれならば寧ろ選ばれし者の特権とすら思えた。
「旦那さま方、奥さま方……、お花は如何でしょう……」
それ程声を張っている訳でも無さそうなのに、彼女の声は喧騒騒めく通りを挟んでも良く聞こえた。少し陰を帯びている感は否めなかったが、それすらも男たちには艶めかしく聞こえるのだろう事は周囲の反応からすぐに窺えた。
事実、彼女の許には先程から引切り無しに花を求める客が訪れている。花籠の花は見る見る内に減っていく。その花を見ていたら、何故か、私も足が動いていた。
「その、花を一輪貰えるか」
「はい、将校さま」
少女は突然現れた軍人に怯えを見せる事も無く、籠から一輪取り出す。その時、私は初めて少女の目を見た。色素の薄いその目はガラス玉のように無色透明で、此の世の何物をも映してはいないような、そんな気にさせられた。
「……将校さま?」
「っ、すまない。……この花は、何という名前の花だ?」
「はい、勿忘草でございます」
少女は感情の読み取れない薄笑いを浮かべて、私の質問に答える。将校という職業柄、媚び諂うような薄笑いは何度も見て来ていたけれど、少女のそれは他のどれとも違っていた。言うなればそれは「仮面」と言った方が相応しいであろう。無機質で、表情である筈なのに此の世の一切の感情を削ぎ落したかのようなそれに、私は確かに違和を覚えた。
「勿忘草、か。最近巷を騒がしている連続殺人鬼を知っているか?」
「……ええ、勿論で御座います。この辺りに暮らしている者で知らない者はいないかと……。何でも殺された方々のご遺体の近くにはいつも勿忘草が置いてあるそうで」
「そうなのだ。お前も重々気を付けるのだぞ」
「……ええ、お気遣い有難う御座います」
膝を折るようにして頭を垂れた花売りに背を向けて、手許の花を弄びながら思考を繰り返す。それは私が「張り込み」を始めてから三日が経った頃であった。
「張り込み」と言うのは他でも無い、ここ数ヶ月道内を騒がせている連続殺人鬼を捕らえる為であった。被害者の共通点は男であるという以外には見当たらず、その共通点すらも暫定的で曖昧である。手口は鮮やかでされど惨忍極まりなく、事件現場は凄惨の一言では済まない有様であった。そして先程の少女の言の通り死体の傍には勿忘草が必ず一輪置かれているのだ。それが目印となってこの共通点の少ない事件たちが繋がったのだ。
小樽だけでも既に三人が犠牲になっているこの一連の惨劇に警察組織はいよいよ本腰を据えたという訳である。つまり事を軍に投げた。
率直に申し上げて警察の尻拭いを何故軍がせねばならぬのかという或る種の憤りを感じながらもそれが心酔する上官の命ならばとこうして「張り込み」に来ているという訳だ。
指先に摘んだ勿忘草を弄ぶ私を人々が僅かに遠巻きにして行く。知らぬ間に顔が強張っていたようだ。硬い表情を和らげるように強く目を瞑る私の耳朶を聞き覚えのある声が打つ。
「鯉登少尉」
「む……、月島軍曹」
万一のためにと月島と同行していた事を思い出し、ふと、手の内の勿忘草の存在に目を遣る。月島も私の視線に気付いて私の手許に視線を動かした。
「それは?」
「先程花売りから買ったのだ。お前にやろう」
半ば無理矢理に月島にそれを持たす。月島は最初こそ状況をよく理解していない様子であったが、上官に持たされたのが件の勿忘草であると知ると途端に顔を顰めた。
「……悪趣味な」
「他意は無いぞ。あの娘が選んだのだ」
「娘?……花売りの娘など、何処にも……」
私の指差す方に視線を投げて捜す月島に私も同じく視線を移す。月島の言う通り、少女はいつの間にか姿を消していた。
「……?おかしいな、先程まで確かに……」
辺りを窺う私に月島のため息が聞こえる。上官に向けてため息を吐くとは何事かと思わなくも無かったが、まあ良しとしよう。私は月島に勿忘草を押し付けた。
「取っておけ。時には花を愛でるのも悪い事ではないだろうからな」
「全く……」
呆れたようにその一輪を外套の衣嚢に収めた月島であったが不意に顔を上げて通り一面を見渡す。その顔は酷く険しい。
「月島……?どうしたのだ?」
「いえ、気のせいでしょうが。……誰かに見られているような気がしまして」
月島の視線を追うように目を遣るがそこには確かに誰もいない。月島も気のせいだと結論付けたようだ。私に背を向けて次の「張り込み」の場に向かうつもりらしい。
「月島、私も行こう」
月島の背を追って、それでも一度振り返る。ガラス玉の瞳が細まるのが見えた気がして。
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