自分はこの世の全ての不幸を背負い込んだのだと思った。戦争で父が死んで、家はあれよと言う間に傾いて、兄は病に斃れ、母は消えた。残ったのは返す当ても無い借財と、この身一つだけだった。この世の全ての不幸を背負い込んだと思った。
何かあった時にと教えられていた親戚筋はみな私の事を煙たがり、本当に私には何も残らなかったのだとこの時になって初めて気付いた。私には、何も無かったのだと。
売られる事が決まったのは何も無くなってすぐだった。手に職も無い小娘が端金を手に入れるための方法なんて限られている。私に望まれた事はただ、私が死ぬまでに少しでも私の上に乗せられた借財を小さくする事だけであったという事だ。
家財を売り払い、家を引き払い、自分の身の回りの僅かな物だけ纏めて玄関前に立った時、私にはもう感慨も何も湧かなかった。思い出の詰まったこの家は借財を帳消しにするには何の足しにもならなかった。毎日触れて使った家財は引き払うのにさえ金がかかった。思い出なんて、この状況を打開するには何の役にも立ちやしない。
死のうと思った。誇りを棄てて生きさらばえて、一生金を数えて生きていくくらいならまだ何も知らない綺麗な内に死んでしまった方が幾らもマシなのだと。自分の事を可哀想だとは思わなかった。寧ろ今死ななければ待っているのはもっと可哀想な未来だと漠然と感じていた。
覚悟を決めてからは早かったように思う。なけなしの金で切れ味のなるべく鋭そうな刃物を選んだ。店の窓ガラスで精いっぱい身形を整えて、なるべく景色の綺麗なところを選んだ。そこは何の変哲もない風景だったのかも知れないけれど、私には特別だった。幼い頃、兄と両親と歩いた公園。きっとここで死を選んだら、美しい家族の夢を見れるに違いないと思った。
なるべく目立たないところに腰を下ろして買った刃物を取り出した。その刀身は光り輝いて、私の青白い顔を反射した。怖いに決まってる。二十歳にも満たないところで人生を終えるなんて怖くて怖くて堪らない。それでも私は死ななければならないのだと思った。もう私には何も残っていないのに、生きていたって仕方ない。
それなのに私は臆病なのだ。確実にいけるのは首だと知っていた。なのに怖くて手首に刃を当てて引いた。それだけでじくじくとした痛みが襲って涙が滲む。心臓は早鐘を打ち、その鼓動と同じ速度でゆっくりと傷口から血が零れた。
思ったよりも出血量が少なくて怖々ともう一度刃物を構えた。死にたくない、でも死ななければ。ここまで来たら。もう一度柄を握り締めた時だった。
「何をしている?」
不審そうな声が聞こえて驚いて刃物を落としてしまう。身を返せばそこには私と同じ歳くらいか少し上の少年が立っていた。褐色の肌は日焼けだろうか?彼がこの辺りの生まれではないように私に感じさせた。少年は私の尋常ではない様子に気付いたのか顔色を変えて近寄って来る。身体を引く私の手を、少年の硬い手が取った。
「どうした、怪我をしているじゃないか」
「だ、大丈夫、ですから……放っておいてください、」
「馬鹿!放っておけるか!ちょっと待っていろ」
言うなり身を翻した少年に呆気に取られていると、彼はどこからか水で湿らせた手布を持ってきて、そっと私の手首の傷に当てた。
「っ……!」
「すまない、痛むか?」
「ち、ちが……。汚れてしまいます」
まだ血の固まらない私の手首から少しずつ溢れた血が彼の手布を汚していく。手を引こうとするのに少年は許してくれなくて結局私はされるがまま俯いた。彼がどこかに行くまでは死期が伸びた事に、心のどこかで安堵していた。
「死のうとしたのか?」
不意に聞こえた声は私の心臓を突き上げて、顔を上げさせる。何と言って良いのか分からなくて口を噤んでいたら、少年はまるで我が事のように唇を噛んだ。
「死んだら、悲しむ者がいるだろう」
「……いいえ、もう、いません」
少年の言葉は改めて私を一人にさせた。私にはもう、誰もいない。それを急に正対して気付いたら、私は泣いていた。寂しくて悲しくて惨めで、ただ辛かった。突然泣き出した私に少年は慌てたようにまごついて、それから不器用に私の背を撫でる。その温度が喪った家族を思い起こさせて、また涙が滲んだ。
「私が悲しもう」
散々泣いて疲れて、鼻を鳴らすだけになった私を前に彼は漸く口を開いた。それは密やかなでも確固たる意思を持った声だった。
「お前にどんな事があったかは知らぬ。だが、お前が死んだら私が悲しもう。だから死ぬな」
僅かに微笑みを見せた少年は私の眦から零れ落ちた雫を拭う。それからもう血も止まったであろう腕をとってあの手布を巻いた。
「貸してやる。だがこれは私の大切なものだ。だから必ず返してくれ」
「で、でも……」
困惑する私に少年は柔らかく私の頭を撫でて笑った。笑っているのに泣いているように見えた。
「生きろ。どんなに苦しくとも。先に逝った者のために、何よりお前のために」
その瞳には私と同じ色があった気がする。大切な誰かを永遠に喪った悲しみの色が。声が出なくて顔を歪めるしか無い私に少年は背を向けた。いつの間にか日が傾いて辺りは茜に染まっていた。ああ、少年には帰る家があるのだ。
「……また会えますか?」
「当たり前だ。それを返して貰わねばならないのだからな。だからそれまで絶対に死ぬなよ」
つっけんどんな言葉は刺々しかったけど、それは私の心の中に小動物のように丸くなって居着いた。絶望は深く、先は見えなかった。それでも、その中に僅かな色付きがあった事を私はこの日初めて知った。少年の背を見えなくなるまで見送って、深呼吸をした。春先のまだ冷たい空気が私の芯を醒めさせた気がした。立ち上がる頃には辺りは薄暗くて約束の時間に遅れた事を店の主人は咎めたが、折檻などは無かった。
名前も知らない私の救世主の辿った道は跡も何も無かったけれど、私は買った刃物を捨てて歩いてそこの門を潜った。
この世の苦界と呼ばれるここに、私は自らの足で来た。
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