連れて来られたのは「普通」の家だった。何となく、彼の自宅かとも見えた。モノが少なくて生活感の無い、空虚な。ある意味想像通りの私的空間に、私は非常にしっくり来ていた。でもそれは一種の逃げであった。異質なこの空間からの。
この空間はおかしい。死にたがりに関わるだけでなく、剰え命を助けるなんて。一体どういうつもりなのだろう。ゆるゆると顔を上げる。彼と視線が絡む。
私も彼も無言だった。彼はともかくとして、私は何を言えば良いのかが分からなかった。確かに私と彼は「浅からぬ仲」だ。でもそれ以上でもそれ以下でもない。私たちはお互いの事を何も知らない。彼の名前すら、私は知らない。
部屋の隅で身体を固くする私を、彼はじっと見ていた。いつか私の事を見たような、夜の湖面のような凪いでいる、しかし昏い瞳で。その瞳に、欲は見えなかった。憐れみも。ただ、哀しみが見えてそれがこれを現実なのだと知らしめた。今起きている事はとても「哀しい」事なのだとも気付かせた。
「…………私、結核よ」
何を言って良いのか分からなくて、事実を告げた。万に一つ、彼がそれを知らずに私を連れ帰ったのだとしたら事だと思ったから。それなのに彼はやや目を眇めただけだった。
「だから?」
当然のように返されて、私の方が口籠ってしまう。移したらどうするの、とか、私死んじゃうよ、とか色々な言葉が脳裏を駆け巡ったけれど、そのどれも言葉にはならなかった。ただ、「結核、なの」と繰り返す。
「知ってる。楼主に聞いた」
「……っ、じゃあ、なんで、」
言葉が上手く出てこない。お勤めの時だってもっと上手く話せていた。否、お勤めだから上手く話せていた。感情の内在しない会話程、楽な事は無かった。今は私が私の感情を使って彼の感情と対話している。それはもう永らく私がしてこなかった事だった。
「………………、」
彼は何も言わなかった。私も何も言えなかった。そのまま見つめ合って、瞬きの音まで聞こえそうな静寂は、彼の吐息にかき消された。
「何ででも、良いだろ。行く所が無さそうだったから、連れて来ただけだ」
じっ、と目を見つめられた。嘘だな、と私でも分かった。彼は本心を告げる時、目を逸らす癖がある。それは仮初の逢瀬の中で私が彼について知っている数少ない事だった。でもそれを追及して何になるのだろう?病身の私はまた雨露を凌ぐ屋根を失う事になるのだろうか?それなら。
それは紛れもない打算だった。彼が望むのならこの身すら投げ打とう。最早何もかもがどうでも良い。音様のいない世界に未練なんて無いという言葉に偽りなど無かった。
「…………わたし、何をすれば良いですか?旦那さまに、なにを、すれば良いですか?」
精一杯蠱惑的に、笑んで見せたつもりだった。憐憫を誘うような、哀れな女を演じる事など簡単だった。弱い獲物が捕食者に腹を見せるように私は彼に阿って見せたのだ。ただ、屋根の下で息をする時間を長らえるためだけに。
彼は私の言葉を聞いて、目を伏せた。その顔は何かを考えているような、感情を抑え込んでいるような表情に見えた。迷っているのだろうか。恐る恐る、彼に近付いてその手に触れようとした。
「っ、」
軽い音と共に手を払い除けられたと、少し遅れて理解した。彼もほとんど無自覚だったのか、自分のした事に少し驚いているようだった。
「悪い」
「…………いえ、」
「……今日は、もう寝ろ。熱、あるだろ」
指摘されて、ぼんやりとした意識に気付く。ああ、熱があるのか。でもこれは最近いつもだから、と言い訳めいた言葉を返そうとしたのに、意識したらもう、足腰が立たなくなる。ふらふらと座り込む私に彼は静かに近付くと、私を抱き上げた。触れ合った所から伝わる熱は、私の物より低くて心地良い。吸い込まれるように目を閉じると、意識もそれに伴って落ちていく。
「何もしなくて良い。…………だから、」
だから?だから何なのだろう。その続きは聞こえなくて、ただ、感じるのは温もりと、力強い腕の感触だけだった。
***
夢を見た。誰の夢かは分からなかった。ただ、泣いている誰かに寄り添う夢だった。最初は音様に寄り添っているのだと思っていた。でも、違う。直感だったけれど、「彼」は違うと思った。顔も見えないその人は、哀しみに張り裂けそうな感情を抱えて、声も無く泣いていた。どうして泣いているの、と聞くのに答えは何も返ってこない。私に出来る事は寄り添って、手を握って温もりを分かち合う事だけだった。彼の声無き声を聞いているその内に、私も悲しくなって、私の方は声を上げて泣いていた。私たちはただ泣いていた。この世に絶望して。何もかも、失った事をただ、悲しんでいた。
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