ささやかでも致命的

あたたかな腕に抱かれて、微睡んでいた。私を包むのは安堵ばかりでこの腕の中でなら、世界は美しく輝いて見えるのだとどこか遠くに投げ捨てた意識の片隅で悟った。髪を梳かれて耳に口付けられる感覚がして擽ったくて身を捩る。低い笑い声がして今度は耳を食まれた。どうやらこの腕の持ち主は私が目覚める事を望んでいるようだ。

「ん……、も、くすぐったい、です……」

「ふふ、起きたか?」

目蓋を押し上げて、心臓がぎゅうと甘く疼くのは初めてだった。恥じらう私の反応を楽しむように音様は私の耳に唇を落とし、頬に、額に、鼻に、そして私の唇に順に唇を落としていった。触れるだけの唇が最後に私の唇を掠めて行った時、彼は低く掠れた、熱っぽい声で「愛している」と囁いた。

「私も……、音様の事好きです……」

「こんな私でも?……私は、欲に溺れてなまえを、」

私の身体を抱きながらも少し唇を噛んで恥じ入るように視線を落とす音様に私は首を振る。世間も道徳もどうだって良かった。それが私を守ってくれた事なんて一度も無かった。私は既にそれらに背を向けて生きていたし、それらも私に背を向けていたのだから。

「私が望んだの。身も心も音様の物にしてくださいって、私が望んだんです。音様が気に病む事じゃないです。だから私を抱いた事、どうか後悔しないで」

「っ、後悔などするものか!」

ぎゅう、と抱き竦められて熱いくらいの腕の中、音様は私の身体をただひたすらに抱き締めていた。それは手の中の大切な物を逃がすまいと必死に握り締める幼子のようで、胸の内にじわりと広がるあたたかな感情は私の胸からどんどん迫り上がって溶けだしていく。

「……なまえ?、なまえ!?……な、泣くな。な?泣くんじゃない……」

気付けば音様の顔はぼやけていて、彼は慌てたように困ったように眉を寄せていた。音様を困らせたくないのに涙は後から後から零れて止まる事を知らない。こんなに泣いてしまっては目が腫れてとても見る事の出来ない顔になってしまうと頭では分かっていても涙は止まらなかった。

「私はなまえと深い仲になった事を後悔などしない。順番を違えてしまった事はその、少し悔やんでいるが……。だがそれでも、それ以上に、なまえが愛しい……。だから泣くな。お前に泣かれると、どうしたら良いのか分からない」

私の涙を親指で拭いながら、音様は微笑んだ。それは私の大好きな笑みで、酷く安堵してしまった私の涙腺はまた緩み、泣き止むどころか更にぼろぼろとみっともなく泣きだす私を音様が泣き止ませるのにまたかなりの時間を要したのだった。

「落ち着いたか?」

漸く私が泣き止んでお互いに恥じ入りながら服を纏い、待合を出る頃にはあれだけの雨が嘘だったように空は綺麗に晴れ渡り、道に広がる水溜まりが太陽の光を反射して煌めいていた。外の少し湿った空気を一息肺に吸い込んで身体が震えた。穏やかな天気とは裏腹に。

今になってみれば大変な事をしてしまった。客でもない男に身体を許すなんて。その上その男に、音様に心をやってしまうなんて。これがもし楼主に、いや、私の真実を知る誰かに知られてしまったら。それを考えたら先ほどまでの幸せな気持ちは一気に萎んでしまう。

「なまえ?大丈夫か?」

「え?あ、ごめんなさい、何ですか?」

怪訝な表情の音様に覗き込まれて咄嗟に取り繕ったけれど不自然さはどうにもならなかったらしい。音様は心配そうな顔で私の身体を引き寄せた。

「送って行くと言ったんだ。気分が悪いなら尚更だ。家はどこだ?」

その言葉に私は凍り付く。家、本当の事。言えば音様はきっと私を軽蔑するだろう。私が誰にだって身体を開くふしだらな女だと知ったら。血の気が引いて、でもそれを悟られて言い訳するのが怖くて私は俯いて首を振る。

「だ、大丈夫です……、一人で帰れます……」

「そう言われてはい、そうですかと帰すと思っているのか?我慢も遠慮も必要ない。ほら送って行くから、」

「大丈夫ですから!」

気付いた時には音様の言葉を遮り、手を振り払っていた。音様は驚いたように目を見開いていて、私は必死にこの後の言い訳を考えていた。でも知恵も何もないこの頭はこの場を乗り切るだけの言葉を生み出す事は出来なくて、私は唇を噛んで音様の視線から目を逸らす。

「ど、どうしたというのだ、なまえ……?私が何か、」

「違うの、違います……っ」

「っ、おい、なまえっ!」

これ以上ここにいたら取り返しのつかない言葉を吐いてしまいそうで、私はもう耐えられなくて音様に背を向けて走り出した。背後で聞こえる音様の制止の声を振り切って、ただひたすらに駆けた。私が普通の女だったらこんな逃げ方しなくて良かったのに、なんて叶う筈も無いささやかででも致命的な願いを抱えながら。

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