その先には

温もりに包まれて、水を揺蕩うように私はそこにいた。全身からありとあらゆる余分な力が抜けていて、私は何一つ余計な事を考える事も無かった。私は「私」という存在それだけを携えて、「私」という存在だけを認知していた。他に考える事も無く。

その内に私はこれが夢であるという事実に気付く。いつもそうだった。愛してもいない男の腕の内で眠った時、私は何も考える事の無い夢をよく見た。いや、きっと「何も考えなくて良い夢」だ。その夢の中では私は自由だった。それが夢と気付くまでは。

そう、いつもなら私が夢の存在を認知した時点でこの夢は終わる。それなのに今日は、どうしてだろう。私が夢の世界を把握しても、私は変わらず世界に存在を続けていた。

立っているのか座っているのか寝転んでいるのかも曖昧なこの世界で、私はただ呆然としていた。何をして良いのか、何をしたら良いのか分からずに。この先の世界を私は知らなかった。

不意に目を焼くくらいに眩しい光が辺りを照らして、私は瞬間目を瞑る。次に開いた時に眼前に広がっていたのは、ありもしないあり得ない、確信を持って言葉に出来る、万に一つも無い光景だった。

まるで活動写真か何かのように(でもそれは活動のように白黒ではない、全くの色付きであった)流れるようにそれは私に見せた。私にあったもう一つの可能性を。

清国との戦争で亡くならなかった父は戦争で華々しい勲功を上げて昇進した。母は綺麗で優しくて、私を振り返らなかった最後なんて無かったようだった。兄は元々それ程身体が強い訳では無かったけれど、あの病は峠を越えて快方に向かい、私はその枕元で学校であった事を沢山話した。それを笑って聞いてくれる兄に私も微笑んで、そこに母がやって来て父が来てくれる。私は美しい家族の偶像の中で育ち、そしていつか生涯を共にする人に寄り添うのだ。そう言えば、今日はその人との約束の日だと、さっき父に言われた気がする。

「なまえ」

聞き覚えのある声に振り返る。そこにいたのは、一人の男性であった。微笑んで、私の事を手招いている。胸が握られたように甘く痛んで、心臓が跳ねる。表情は知らず緩んでいて、彼が私の運命の人なのだと、言われなくてもすぐに分かった。それでもこれが夢だからだろうか、私は思い出せないのだ、彼の名前を。微笑んで私に手を差し伸べる「彼」が一体誰であったのかという事を。

彼の許に向かおうとするのに真名が呼べず、足が動かない。彼は次第に遠ざかっていくように私から離れて行く。待って、行かないでと呼び止めようとする声すら喉から出てこなかった。目一杯手を伸ばして、それでも遂に彼が見えなくなってそして、私の意識も薄れてそして。

「っ!」

目を開いて一番に目に入ったのは見慣れた部屋の天井であった。悪夢という程の夢でも無かったけれど、妙に息が弾んで肩で息をしていた。はっと辺りを見渡せば、窓に寄りかかって静かに酒を呷る「彼」がいて、その窓から差し込む月明かりの明々しさから刻の頃はまだ夜半なのだと分かった。

「……起きたのか」

彼の静かな問い口に身体を起こして、小さく頷く。それから客に独酌をさせている事に気付いて気付かれない程度に慌てて私は彼の方に身体を寄せる。

「別に良い。寝てな」

彼は声だけ煩わしそうにしたけれど、その癖私が奪った銚子を奪い返す事も無く、挙句に杯をこちらに突き付けた。酌の仕方は私がこの世界に身を浸して初めて習った仕草だった。少しでも男の気を引けるようにしなければ生きていけない世界で、私は姿見に映る私を見ながら随分とこの仕草を研究したものだった。

「……、綺麗な月でございますね」

特に会話らしい会話も思いつかなくてふと彼の横顔を照らす月光に目をやる。怜悧な青い光と彼の感情の読み取れない鋭い瞳はよく似ているような気がした。あの人を太陽と評するのであれば、この人はきっと月だ。私の言葉に彼はちら、と夜空を見上げて杯を空にした。

「そうか?」

「ええ、静かで冷たくて、まるで世界に私一人のよう」

「……世界に一人だと、俺に言うのか?」

全く矛盾している言葉を指摘されて、それでも反論する気は起らなかった。曖昧に微笑んで、私はそっと差し出された杯を透明な液体で満たす。彼はすぐにそれを煽って唇を拭った後、私から銚子を取り上げて傍らの膳の上に適当にそれを置いた。

「もうお酒はお終いですか?」

窺うように彼を見つめれば、彼は私の顔をじっと見てから手招きをした。静かな要求を拒む事無く彼に近付けば、彼は私を引き寄せて彼の身体に凭せ掛けるように私の肩を抱いた。

「旦那さま?」

「なあ、」

「はい」

ぼんやりと窓の外の景色を彼は眺めていた。でもきっと何一つその風景を楽しんでいないのだろうという事は窺い知れた。だって声に輪郭があり過ぎていたから。言い様によっては少し硬過ぎるくらいに。それは言い出し難い事を言う前の雰囲気に似ていた。

「お前は、世界に、」

彼が先ほどの月の世界の話をしようとしている事に、私は漸く思い至った。彼の瞳に海原を惑う船人のような寄る辺ない不安を僅かに見た気がして瞬きをした瞬間、それは消えていた。彼の目にはもう何も映っていなくて、そして私に渡す言葉も喪われてしまったようであった。

「今、この時は世界に旦那さまと二人ですよ」

機嫌を取ろうとした訳では無いけれど、こう言えば大抵の客は喜ぶからそう口にしてみる。隣の温もりは変わらなかったけれど、一言だけ聞こえた返答が耳に付いた。

「この時は、ね……」

その声に乗せられた感情が行き場の無い鬱屈のような気がしたのは私の気のせいであろうか。

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