追い付かれると思ったのに、追い付かれなかった。それは僥倖であったのにもかかわらず、私の心の内を蝕むように痛めつけた。音様が「本気になれば」私が逃げ切れる事なんて無かろう筈なのに。音様から逃げ切った事、それその事実が私を傷付けた。
息急き切って店に飛び込んで、自室に転がり込んだ私を楼主はどう見たのだろう、他の妓は。それでも私は隠れるように与えられた部屋の隅で膝を抱えるしか出来なかった。怖かった。周りからどう見られるかでは無くて、音様からどう見られたのか知るのがただ怖かった。
何も知らない生娘じゃない事はもう知られてしまって、音様はきっとそれを疑問に思っただろうに口にしなかった。それだけでも恐ろしかったのに、私の本当の事を知られて軽蔑されるのが怖かった。やっと知る事の出来たこの想いが悲しい結末で終わるくらいなら、いっその事自ら終わらせて、大切な想い出として生涯心の内に抱いている方が良いのだと、それ程までに音様の事を愛しているのだと私は今になって漸く、知った。
どうして私は「こんな」なのだろうと、考えても詮無い事なのに、今だけはただ悲しみに浸りたくて、音様の事を考えたくなくて、私は誰にも聞こえないように声を押し殺して泣いた。泣いてしまったら、目が腫れて夜のお勤めに響くのに、それでも涙は止まらなかった。それは誰のせいでもない事だった。私のせいでもない事だった。
***
店の玄関に明かりが灯ると私たちの仕事は始まる。店先に並べられた物言わぬ写真たちから好みの女を選んだ男たちがいそいそと店に上がっていくのをぼんやりと窓から眺めながら、私も私の客を待っていた。結局私が泣いていた事は隣の部屋の妓の与り知る事となり、彼女に慌てて手渡された水袋により私は確りと目蓋を冷やしたためそれは腫れる事は無かった。尤も瞳は充血して真っ赤であったから、明るい所で見れば私が泣いていた事など一目瞭然だろう。だからこそ、私は今宵明かりを一段と落として待っていた。あの男の事を。
「よう」
不意に背後で声がして肩が揺れる。ゆっくりと振り向けばそこには「彼」がいた。相変わらず昏い目をしていてその表情は爬虫類のように読み取れない。彼は私を上から下から見つめると、ふと驚いたように眉を跳ね上げた。そして適当に少ない手荷物をその辺りに放ると遠慮も無くずかずかと私の方に近寄ってきた。
「な、なに……!」
「泣いていたのか」
それは問いではなかった。確信を持った一つの答えだった。彼は私の前に膝を突くとそっと、硬い掌を私の頬に触れさせた。そしてもう一度確信を持った声で「泣いていたのか」と呟くように口にした。
「……どうして、そうお思いなの、」
おかしな間がある事自体その確信を肯定する事であったけれどまさか真実を言う事も出来なかった。私を買った男に好いた男の事を話すなんて事が赦される筈も無い事は私が一番よく理解していた。
彼は暫く何も答えなかった。ただ私の頬を触れるか触れないかの掌で愛撫するように撫でていた。静かな時間に隣の部屋から聞こえてくる猥雑な笑い声や嬌声が浮世離れして聞こえていた。硬い掌は一体どれだけの人を傷付け殺めて来たのだろうと私は場違いに感じてその考えを目を伏せて捨てる。
世界から隔絶された気分だった。いつかの月夜の晩のように音の無い世界でもあるまいに。それでも確かに今この時だけは私と彼はこの世に二人きりなのだと思った。
彼は矢張り何も答えなかった。私の目をじっと見て、それから徐にその手を私の頬から離した。それを素直に残念だと思ったら引き寄せられていた。不器用そうに、それとも本当に不器用なのかは分からないが、彼は私を引き寄せてその腕の中に閉じ込めたのだ。まるで慰めるかのようにゆっくりと髪が梳かれ、もう片方の腕は私の背中の辺りで私を引き寄せるように動いた。
彼のその温もりに、私は思い出していた。それはまるで音様の温もりとは違っていた筈なのに、私は音様を確かに思い出していた。優しくて、私の事を想ってくれていて、あたたかな温もりを。
「……ぁ、」
声が震えて、まずいと思ったのに彼の手は私の感情を擽って止まなかった。どうして、何のつもりでと聞きたくてでも聞くのが怖くて、気付いたら私は彼の腕の中で声を上げて泣いていた。諦めた振りをして本当はずっと悲しかった。どうして私なのと自分の運命を呪った。そして何も残らなくて、本当に私と音様の間に隔たる物の大きさを感じた。私はもう二度と、音様に逢う事は叶わぬのだと。
「旦那さま」、「旦那さま」と泣く私に彼は何を思ったのだろう。その言葉が自分の物では無い事を彼はきっともう分かっている。窓から差し込んだ月明かりが照らす彼の表情がまるで泣いているようで、私たちはもしかして同じ痛みを背負っているのではないかなどと、私は下らない考えに支配されながら束の間の眠りに落ちた。耳許に落とされた「……泣くなよ」の四文字が妙に頭に残っていた筈なのに、起きた時にはまるで夢のように彼の姿とともに消えてしまっていた。
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