音様と別れて店に帰ってから、貰った紅は誰にも分からないように隠した。そうするべきだと思った。個人の私的領域などあって無いようなこの店の中で、私の大切なものを他の人間の目に触れさせたくはなかった。
それから、もう一度姿見に向かい合ってみる。唇はやっぱり私の「今の」化粧に良く馴染んでいて、お勤めの時はもう少し派手な方が良いなあと勝手に少し傷ついた。音様が私の本当の事を知らない事に。
思えば最初から、私たちは隔たっていた。音様は多分私の事をどこかの町娘か何かだと思っている事だろう。でも、それは違っていて私は音様には、いいや、どんな男とも釣り合う事なんてなくて、死ぬまでたった独りなのだ。唯一心を許した人と結ばれるなんてそんか事、ある筈もない。
(おとさま、)
声無き声でその名を呼んだ。姿見に映る私は泣いていて、私は私の救い主との約束も忘れて今すぐにでも死んでしまいたいと思った。滲んでいく視界の向こうには、誰もいないのだから。夕方と夜の境目がやけに私の感情を苛んで、私は少しだけ泣いてそして悲しいという感情を、音様と逢っていた時に施していてた化粧と一緒に落としてしまった。そうしないとまた、自分が傷付くだけだと知っていた。
夜、時々おかしな客が来る時がある。それは性癖がとか、そういう意味ではなくて、快楽を目的として私たちを買うのではなく、ただ傍にいて欲しくて、女を買う男がいるという事だ。勿論揚げ代を払ってくれるのならどんな男だって客は客だし、こちらとしても綺麗なままで朝を迎えられるのは願ったり叶ったりだ。でも、時々思う。
見も知らない女を買う事でしか癒せない孤独とは何なのだろうか、と。
答えを彼らに聞こうとは思わないし、そもそも知りたいとも思わない。でも、「彼」も時々そうなったから、偶に気になる時があるのだ。そう、名前も知らない暗い瞳をしたその男は、時々思い出したように、まるで好いた女と共寝するかのように私を腕に抱いてただ、眠った。
「だんなさま、」
布団の上で触れるだけの唇は少し乾燥している。逃がさないと言わんばかりに握られた腕が少し痛くて、抗議するように彼の手に触れた。弱くなる拘束にため息にも似た息を吐いて、少しだけ揺れる手でその首許の釦に手を掛ける。けれど彼はそれを拒否するように顔を背けたから、不思議に思う私に、しかし何も言わずに彼は尚も何度か私の唇を奪った。
「ん……、旦那さま?」
ぱち、と目を瞬かせる私に彼は自分から上着の首許を緩めていく。今日はそう言う趣向なのかと私が黙って見ていれば、上着を脱ぎ終えた彼は乱暴にそれを脇に放ると静かな表情で私の事を手招いた。
「はい……、っや……」
くい、と引っ張られて彼の胸に飛び込んでしまう。驚いて体勢を立て直そうとその腕の中で手を突けば、彼はやはり静かな顔で私を見つめていた。言葉無く私を見つめる彼を、私も見つめていた。見つめ合った私たちは、そしてまるでそうする事が最初から予定されていたとでも言うように唇を交し合う。荒々しく貪る訳でも、情熱的に舌を絡め合う訳でも無い、ただ触れ合うだけの児戯にも等しいそれをどれだけ続けていたのだろう。
始まった時と同じく終わりも突然であった。私たちはまた別の個体に別れて、見つめ合っていた。静かな呼吸が猥雑な夜の店の空気に溶けていく。彼の瞳が何かを言いたげに細まった。
「……、」
息を呑むよりも先に抱き締められたと気付く方が早かった。彼は私を腕の中に収めていた。ただ、背中に添えられた手だけが、これで良いのか分からないと言った風に控え目に言い様によっては怖々とそこにいた。首筋に埋められた彼の頭が呼吸をするのが少し擽ったい。こういう時、きっと私も抱き締め返すのが正解なのだと私は知っていた。でも、どうしても私の手は彼の背中に回る事は無く、それでもお勤めだからと張る意地は私の手を彼の二の腕という何とも中途半端な位置に置かせた。
「だんなさま……?今日は少し、変です。どうかなされたの」
「……別に、何もねえさ」
私の問いに私の首筋から答えが返ってきて、擽ったくて身を竦める。彼はそれに気付いたのか、少し可笑しそうに息を吐いてそれから私の首筋を悪戯するように食んだ。
「っひゃ!旦那さま、くすぐったい……!」
「うるせ……我慢してろ、」
「んっ……、」
痛くないけれど存在は主張するように首筋を甘噛みされて、ぎゅうと身体が竦む。何度かそれを繰り返しせば彼は満足したのか私の首筋から顔を上げると甲斐甲斐しく私の襟を直した。妙にすっきりとした顔が目についた。
「疲れた、寝る」
「按摩でも致しましょうか?」
「いい。お前は力が弱いから物足りねえ」
「まあ、結構な言い草ですね」
軽く頬を膨らませてみれば、彼は今度こそ可笑しそうに笑った。その、素直な感情表現に私の心臓がどきりと揺れたのは動揺だったのだろうか。彼の人間らしい表情は私の感情を揺り動かした。
「……、だんなさま」
「あ?」
「……いいえ、何でもないんです。おやすみなさい」
何か言いたいと思ったのか、それでも言いたい言葉は見つからず首を振って誤魔化した私を彼は一瞬物言いたげに見つめていたが結局何も言わず私を腕に抱いて目を閉じた。私はまだそれ程眠くは無かったから以前彼に注文を付けられた事を思い出して彼の背中に腕を回してその広い背中を規則正しい速度でゆっくりと叩く。抱擁の力が強まった気がして、彼も寂しいのだろうかとふと思った。
夜はいつまでもまんじりともせず布団の中で起きていそうな彼は見かけによらず寝入りが早いのだろうか、一見穏やかな顔で眠っているように見える。その安寧は隣に誰かがいる事でもたらされるものなのだろうか。それとも今夜は特別に疲れてしまっているのだろうか。彼の眠る顔を見ていると感情が揺らぐ。
彼と私は根本ではきっと似ている。どちらも癒えない寂しさを抱えて、それを一時打ち消してくれる何かを探しているのだ。
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