君を護れと星月夜

私が連れて来られたのは大通りに面する小間物屋であった。店の前で私を振り返った音様は迷ったように口を開いてまた閉じる。何となく彼の言いたい事は分かるけれど、下がり眉が可愛らしくて敢えて音様の言い出すままに任せてみる。私が何も言わないと察したのか音様はますます弱った顔でああ、だのうう、だの唸ってから漸く決意したように口を開く。

「その、昨日、色々考えてな……」

「はい」

「なまえに簪の一つでも贈れたらと、」

「へ……?」

間抜けな声が漏れるのも当然というものだ。この人は男が女に簪を贈る意味を分かっているのだろうか?いいや、もし分かっていて贈ろうと言うのならばそれはそれで問題はあるがこの際良い。問題は分かっていなかった場合の方だ。曲がりなりにも良い年頃の男がそれを知らないというのはかなり問題が、というか彼の周囲は彼に対して男女の機微について一体何を教えて。

あれやこれやが頭の中を一気に通り過ぎていく。勿論音様が昨日別れてから私の事で僅かにでも思考を埋めてくれたのは嬉しいし、彼が純粋に私に何かを贈りたいと思って簪を選んでくれたという事も分かってはいる。分かってはいるが、私にそれを受け取る資格が果たしてあるのだろうか。出会ってまだほんの僅かの薄汚れた娘が、前途を約束された彼の想いを。

嬉しさとも居た堪れなさとも取れない顔をしている私に気付いたのだろう。音様は目に見えて項垂れて、ぼそぼそと小さな声で「すまない……、困らせるようなことを言って」と呟いた。

「あ、あの、違います。困っているというか、簪を贈る意味をご存じなのかしらって。もし音様が知らないで贈ろうとしていらっしゃるんだったら、私思い上がりの女になってしまいます」

「簪を、贈る意味……?」

ぼんやりと口の中で反芻して、しかも遠い目で何やら考え込む素振りの音様にああ、これは知らなかったのだなと内心でほっとする。彼の気持ちに他意が無くて良かった。きっと音様は私の事をあれこれ考えてくれて、その行き着いた先がたまたま簪であっただけで、本当に下心とは無縁の存在だったのだ。半面、私の事を「そう」見て欲しかったという気持ちも僅かにあって複雑な内心は渦巻くように私の四肢にまで広がっていくような心持ちだった。

「い、良いんです。簪を贈る事に意味なんて無いわ」

音様が結論に辿り着いてしまう前に無理矢理彼の思考を遮ってしまう。音様は少し不思議そうに首を傾げていたけれど、考えても仕方ないと思ったのか期待に満ちた目で私を見つめた。

「それで、私から贈った物を受け取ってもらえるだろうか」

「……で、でも、今日は本当は私が音様にお礼をしないといけないのに、」

「なまえが私に会いに来てくれた事が昨日の礼だ。これは今日、私がなまえに対してしたい事に過ぎない」

何を言っても言い返されてしまいそうで、どうやったら音様を説得できるか考えを巡らすけれど何も思い付かない。唇を引き結んで(嬉しさを隠すためでもあるし、困った表情でもある)いれば音様はやはり萎れたようなしょぼくれた表情に変わる。表情のよく変わる彼の顔は見ていて飽きない。

「や、やっぱり出会ったばかりの男からの贈り物は重いか……?」

「そうではなくて、出会ったばかりの方からこんな良くして頂くなんて申し訳なくて」

「これは私の我が儘だ。なまえの持ち物に私が贈った物が加わっていて欲しいのだ」

意外に意志を曲げない音様に困惑してしまう。駄々を責めるように音様を上目で見上げれば、音様も私の固辞を責めるように私を見つめた。暫くそうやって睨み合っていたけれど、彼の、音様に見つめられているという事が私の胸の内をざわつかせて、それがどうにもならなくて私はうっかりと目を逸らしてしまった。私の負けだ。

「なあ、良いだろう?私の我が儘に付き合ってくれ」

先ほどまでの子どもっぽさが嘘のように大人びた、言いようによっては艶やかさすら感じさせる顔で音様は笑って私を誘って遂に小間物屋の敷居を跨いだのであった。

そこは私には到底手の届かない、それこそ金銀砂子そのものを並べ立てたような美しい空間だった。右を見ても左を見ても美しい意匠がふんだんに施された簪や櫛や笄、その他装飾品、小間物が並べられていて新しい持ち主に選ばれるのを待っている。とても綺麗で心が一気に沸き立つのは分かったけれど、実際に手を伸ばすのは怖かった。

「どれが良い?だがなまえには何でも似合うものだから、困るな」

やはり音様も綺麗な装飾品に高揚しているのだろうか。僅かに染まった頬を隠す事も無く近くの棚を眺める音様は、こんな雰囲気のある店にも萎縮していなくて、私は彼が頼もしくて、そして自分が萎縮している事が少し恥ずかしくて音様の方に少しだけ身体を寄せた。

「何をお求めですか?」

「彼女に簪を贈りたいのだ」

私たちに気付いた店主が人の良い笑顔で近付いてくるのを、音様も卒なく応対する。私には程遠い世界を見せられたような気がして目を瞬かせてまるで関係ないような顔をして二人を見ていたら一斉に二人の顔がこちらを向いた。

「!?」

「そうですね……、お連れ様は色白で目鼻立ちがはっきりしておられますから、色鮮やかで少し豪華な簪でもお似合いになるかと」

「そうだな……、何本か出して見せてくれないか」

正気に戻るよりも先に店主は私の事を観察して、正当なのかも分からない評価を下す。音様も何を納得したのか一つ頷いて店主に指示を出せば、店主は私たちを上客とでも判断したのか酷くにこやかに店の奥から奉公人を呼び、何点かの簪を雇い人に持たせた板盆の上に並べた。

「これなど如何ですかね。和装にも洋装にも良くお似合いになりますよ」

それは玉の飾りの付いた銀簪であった。よく見なくても光り輝くそれは明らかに私には見合っていなくて、助けを求めるように音様に視線を送れば音様も興味深そうにそれを見つめていた。裏切りだ。

「ああ、良いな。銀簪か」

「ええ、銀製なので護身用としてもこの上ないかと」

にこにこと、私を置いて商談は進んでいく。慌てて音様の袖を引けば彼は不思議そうに私の顔を覗き込んだ。

「どうした?……もしかして、気に入らなかったか?」

「ち、違います!こんな、こんな立派な物……!頂けないです!」

おろおろともう、恥も外聞も無く音様に縋れば音様は息を吐き出すように微笑んだ。隣で店主も微笑ましそうに笑っていた。

「なんだ、まだ迷っていたのか?いい加減私の我が儘を受け入れろ。なあ、主人もそう思うだろう?」

「そうで御座いますねえ。旦那様のご好意に素直に甘える事も時には良いものですよ」

双方からの攻撃に私の援護は無くなってしまった。結局何を言っても私は音様を説得し直す事は出来なくてあれよあれよと言う間に、私は店専属の髪結いに髪を結い直されて、新しい銀簪を挿されていたのだった。

「本当にお似合いで御座います。旦那様が羨ましい」

柔らかな店主の声が恥ずかしくて俯きがちになるのは仕方ないだろう。流行りの髪型なんてした事はほとんど無くて、姿見に映った私はまるで別人みたいだった。音様もうっとりとしたような、惚けたような表情で店主の言葉に同意している。

「うん、良いな。なまえに良く似合っている」

「あの、本当にありがとうございます。大切にします」

「そうしてくれると私も嬉しい。先に出ていてくれ、主人と話があるから」

そう言って店主に目配せした音様の言う通り一つ頷いてから、私は店主にお礼を言って店の外に出た。「またご贔屓に」という柔らかな店主の声が耳に残っていた。

店の外に出たら結構時間が経っていたのか、昼過ぎの頃合いといったところだった。お勤めの準備もあるからそろそろ帰らないと、そう思うと心はずっしりと重くなる。楽しい時間はあっという間に過ぎてしまうというのは本当のようだ。

「済まない、待たせた」

不意に沈んだ思考を掻き消すように音様が背後に立っていた。咄嗟に振り返って笑みを浮かべられたのは僥倖だ。

「ありがとうございます。本当になんてお礼を言って良いか……」

「礼は良い。それよりもその簪を挿しているなまえをもっと見ていたい。……この後は、時間があるか?」

その問いは私の心をまた重くさせる。目を伏せた私に音様も気付いたのだろう。目に見えて落ち込んだ様子を見せる。

「そう、か……。ま、まあ、用事があるなら仕方ない……。本当は、もっと……」

もごもごと口の中で何やら呟く音様に私も唇を噛む。それから、ふと思い付いた。それはとても素敵な思い付きで、私はうっかり笑みを溢してしまう。

「うん?どうしたのだ、なまえ?」

「あの、音様?もし、もしね、宜しかったらまたこうしてお会いしたいの。駄目ですか?」

断られたらそれまでだけれども、私はどうしてか音様はこのお願いを断らないんじゃないかという思いがあった。そして予想通り音様はまた、あの太陽のような笑顔で頷いてくれたのだった。

「その簪に、願いを込めた」

別れ際、音様は言った。真摯な瞳で私の目を真っ直ぐ見つめて。

「私がいなくとも、その簪がお前を護ってくれるように。お前に降りかかるあらゆる災厄を跳ね除けてくれるように」

だからきっと、もうあんな目に遭う事は無いぞ。

そう自信たっぷりな顔をする音様が可笑しくて、でもどうしても私も彼の言う事が本当だったら良いと願って止まなかった。

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