差し出された音様の手は大きくて硬くて、少し乾燥していた。往来で、私のような女と手を絡め合っているところを見られても良いのだろうか、その迷いが私に音様の手を取らせる事を躊躇させる。それでも私の迷いなど知らぬとでも言うように音様は半ば無理矢理私の手を取った。
「あの、音、さま……」
「何も心配する必要は無い。私の隣で笑っていろ」
微笑まれて左手を確りと握られる。私の手を握る音様の手は熱くて少し湿っていて、音様が緊張しているのだろう事を私に窺わせた。でもそんな事気にもならない。締め付けられるように甘く痛む胸を抱えて、私は少しだけ音様の身体に自分の身を寄せて、気付かれるか分からない程度に彼の手を握り返すのだった。
「なまえは何が好きなのだ?」
往来を歩く私たちを街行く人々が見ている気がする。ありもしない(本当は分からない。もしかしたら気のせいではないのかも知れない)眼差しが怖くて俯きがちになる私を気遣ったのか、音様は私を手近な甘味屋に連れて来てくれた。「ここの団子は絶品だと鶴見中尉に……、ああ、いや、上官に伺ったのだ」と得意そうに笑う音様に彼の世界の片鱗を見た気がして微笑んだら、音様もまた笑ってくれた。
「何って、例えばどんな事ですか?」
「何でも良いのだ。好きな色とか、食べ物とか、本とか……、なまえの事を知りたい」
優しい目で私の事を見つめる音様に考えを巡らせる。好きなものの事なんてこれまで考えた事はあまり無かった。私にとって好きか嫌いかは物を判じる上では些末であったから。私の役に立つか立たないか、そればかりで世界を評価してきた事が今この時ばかりは恥ずかしかった。
「好きなもの、難しいです。甘いものは好きですし、綺麗なお着物も好きですよ。でも特別具体的に何が好きって聞かれたら……」
首を傾げて悩む私を音様は微笑ましげに見ている。その表情が気になって問いかけてみれば彼は少しばかり照れたように頬を染めて目を細めた。
「私の問いをなまえが真剣に考えてくれるのが嬉しい。なまえのそういう生真面目なところを好ましく思うのだ」
「っ……!」
音様の戯れの言葉でしかないのに、その「好ましい」という単語の響きは私の感情を大きく揺らした。跳ねるように脈打つ心臓は耳許で音を立てているし、身体は風邪でも引いた時のように火照って熱い。恥ずかしくなって膝の上で汗ばむ手を握り直す。そうしてふと、纏っている着物の柄に目を止めた。
「……、そうですね。お花は好きです。……桔梗、とか」
今日の着物の柄は青地に桔梗であった。少しずつ暑くなる季節に少しでも涼しさを感じられるようにと着てみただけであったが、柄については特に気に入っているものだったので、そう口にしてみる。そうすれば音様は嬉しそうに破顔して頷く。
「そうか!じゃあこの後は花屋に行こう!桔梗をありったけだ」
「まあ、素敵。でも、音様の好きなものも教えてください」
悪戯小僧みたいな無邪気な顔をする音様に苦笑が零れてつい、制止の言葉は弱くなってしまう。私の返答に目を瞬かせた音様は本当に不思議そうな顔をして首を傾げた。
「私の好きなものなど聞いてどうするのだ?」
「だって私の事ばかり教えています。私も音様の事をもっと知りたいわ。好きな色も好きな食べ物も、好きなお花の事も」
「そうは言っても、私は花の事など詳しくは……、あ、う……、」
私の問いに弱ったように眉を寄せた音様だったがふと、何かを思い出したような顔をする。その顔があまりに寂しそうで心臓が揺れて私は首を振ってさっきの言葉を取り消そうとした。踏み込み過ぎて嫌われるくらいなら、何も知らない方が遥かにマシなのだから。
「あの、音様、」
「……夾竹桃という花を知っているか?」
私の言葉に被せるように、音様は静かに問う。静かな声はしかしそれでもこの空間で確かな音として存在していて私の許にも届いた。私は音様の問いに頷いて、それから音様の顔が単純に「好きなもの」の事を語る時の表情とは乖離している事を感じて少し居心地が悪かった。
「夾竹桃は……、あれは南方が原産らしくてな、暑いくにで育った私にとっては最も身近な花だったかもしれない」
「音様……、」
「だが知っているか?夾竹桃には強い毒があるのだ!だから触ってはいけないのだぞ。私も昔、それはもう、兄上に近付くなと怒られたものだった」
二人の間に流れる少し硬い空気に気付いたのか音様は無理に表情を変えて笑ったように見えた。それは音様の「兄上」の話の時に特に強く表れたように見えて、私は不用意に言葉を紡ぐ事が出来なくて何も気付かなかったように振る舞う事しか出来なかった。
「私の家にも昔、夾竹桃が植えられていました。懐かしいです」
「ふふ、なまえは花が好きなのだな。他にどんな花が好きなのだ?今度持ってきてやろう」
くすくすと笑う音様はいつもの音様でほっとする。音様の他愛ない言葉に言葉を返しながら私はただ、私は音様の事について何も知らなくて、音様もまた、私などの事について何も知らないのだと思い知らされただけであった。
花屋に着いてから音様は本当に桔梗の花をありったけ買おうとしたから私は慌ててそれを阻止する事に労力を費やした。音様はともすればあれもこれもと大きな花束を作らせようとするため私はそんなに大きな花束は持って帰っても家人に誰からのものかと問い詰められるから持って帰れないなどと適当な嘘を並べ立てた。嘘を吐く事は心苦しかったがそれは仕方のない嘘であったと思う。
「……そうか?では仕方ないな、じゃあ桔梗だけ五本も纏めてくれれば良い」
折角の上客を私が不意にしてしまった事に花屋の店主は少し残念そうではあったけれど、それでもそれなりに愛想良く桔梗を纏めたものを手渡してくれた店主に礼を言って私たちは店を後にした。夾竹桃はやはり毒花であるからという理由で、その花屋では扱ってはいなかった。
「なまえには桔梗の花も良く似合うな」
今日は少し早く別れなければいけないと言われていたからいつもより早い別れは承知の上だった。でもそれでもやはり寂しいものは寂しくて、視線を落とす私の右手に音様が桔梗を握らせてくれる。音様の顔を見上げて、そして私はもう自分の感情を抑えていられなかった。別れてしまう前に、音様の世界に私がいる証明が欲しかった。
「音様?以前音様は私の持ち物に音様が贈ってくださったものが加わるのが嬉しいって仰っていたでしょう?でもそれは私も一緒なのです。でも私には贈れるものが何も無くて……っ」
悔しくて惨めったらしくて唇を噛む私に音様は驚いたように目を見開いていた。図々しかっただろうか。音様のような立派な殿方に対して私のような女がそんな事を思う事自体が思い上がりなのだと分かっていてそれでも、もう感情は私の理性を追い越していた。
「なまえ……、」
「音様に贈られてばかりでは立つ瀬がありません……。音様が見返りを求める方でないのは分かっています、でも……!」
恥ずかしさを誤魔化すように音様の服の袖を握って俯く私の手の上から音様はそっと彼の手を重ねた。あたたかくて安心する手に涙が滲む。今更口から出た言葉に身のやり場も無い。その時だった。少し硬い、緊張したような低い声が聞こえたのは。
「なまえ、なら……、もし、そう思うならば、私の頼みを、聞いてはくれないか?」
ぱっと顔を上げる。こくこくと首を縦に振る私を可笑しそうに見た音様の瞳はそれでも少し迷っているようであった。
「なんでも言ってください。私に出来る事は少ないですけれど」
「……うん、なまえが本当に私の事を信頼してくれているなら、で良いんだ。少しの間、目を瞑っていてくれないか?」
硬い声が私の耳を通り過ぎて行って、私はすぐに頷いて目を瞑る。暗い中に太陽が少し差していて、その分だけ目蓋の裏が白い。不自由な視界が不安になって俯こうとしたら音様にそれを制された。俯けていた顔を上向かされて、そして耳許で音様の低い声がした。
「私はお前の信頼を利用するような男だ。そんな男にお前は……っ」
「え……、っ!」
音様の言葉に目を開こうとしてでもそれよりも先に柔らかな感触が唇にあった。それはいつもお勤めでされているものと同じでいて全く違っていて、まるで夢の事ではないかと私に思わせた。確かに、音様の唇は触れた時と同じように前触れもなく離れて行って、余韻すら残されなかったけれど、去り際に落とされた「私は狡い。こんな事を言う資格も無いのは分かっている。だが、それでも、なまえが好きだ」という押し殺した声が、これを現実の事なのだと認識させた。私は何を言えば良いのか、何と言って良いのか分からなくて、離れていく音様の温もりを合図に目を開いただけで言葉を紡ぐ事は出来なかった。私も音様もただ、お互いの顔を見つめて何も言えなかった。まるで初めて会った時のように。
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