夢見た人は

まだ幾度も無い音様との約束は、二回とも音様の予定に合わせていた。音様は忙しい士官の身であるのだからそれは当然である。それなのに音様は私の予定の事を心配するものだから私はいつも大丈夫だという事を伝えるのに手を焼いていた。しかしそれも私の心を揺らすのだから、もう相当私は音様に骨抜きなのだろう。そして今日は三回目の音様との待ち合わせの日であった。

朝から楽しみで仕方なかった。浮き立つ心を周囲に気取られないようにするのに苦労したけれど、それすらも私の感情を上擦らせる。音様に少しでも可愛らしいと思われたくて、入念に化粧をしてそれから思い立ってあの練り紅を隠し場所から取り出した。前の逢瀬から一度も使っていないそれは綺麗な器をそのままにそこにあった。使うのが惜しいけれど、でも音様に気付いてもらいたくて、私は緩む顔をそのままに音様に贈られた紅を差して待ち合わせの場所に向かったのだった。

三度目の正直、というか今回は音様よりも私の方が早かった。それでも音様が私を見つけて慌てて走ってきたのは待ち合わせよりもずっとずっと早い時間だったのだが。

「す、すまなっ……、なまえ、っは、ま、またせた……」

軍人さんなのに息が上がるくらいに走って来た音様は、かなり息を上げてしまって荒い息を吐く。息を荒らげるその様子に驚いて私が、そっと音様の背中を擦れば彼は目に見えて飛び上がるように私から距離を取った。

「な、な、なにを……!?」

「ご、ごめんなさい……!音様があんまり苦しそうだったものだから……、お嫌だった?」

「あ、ああ……、す、すまない!嫌ではないんだ!」

私が同じ距離を走った後よりもきっとずっと早く回復した音様はそれから思い出したように項垂れた。その姿勢がまるで叱られた子どもみたいで私は首を傾げる。私は、或いは彼は何かしただろうか、と。

「その、すまない……。なまえを待たしてしまった、」

「あ、あの、音様?約束の時間を忘れてしまったの?」

「う……、本当にすまない……。言い訳の仕様も、」

「違うわ、違います。約束の時間までまだずっと間があるじゃない」

音様のポケットを指差して彼の懐中時計を出してもらう。品の良いそれが示す時間は約束のずっと前である事は疑いようが無かった。

「で、でも本当はもっと早く来ようと思ったのだ……!なのに今朝は色々あって……」

「あら、もしかしてお寝坊なさったの?」

寝坊する音様を想像してみても想像がつかなくて、くすくすと笑ってしまう。それなのに音様は弾かれたように言葉を並べ立てる。

「な、何で知って……!?あ、いや、ちが、違うのだ!寝坊なんてしてない!」

「まあ、そうなんですね」

寝坊したのかと分かり易過ぎる音様に笑いを堪えるのに必死で多分顔は引き攣っている。朝起きて時計を見て慌てる音様を想像したら可愛らしくて、顔が緩む。話を逸らさないとこれ以上続けたら笑ってしまうと私は話の矛先を変える事にした。

「昨日は遅かったのですか?だって、寝坊……目の下に隈が見えるわ」

「ん……、そうか?多分、昨日は眠れなかったからだと思う」

「え……?お身体の調子がお悪いの?」

何気ない音様の言葉に心配になってしまって眉が下がってしまう。楽しかった気持ちが急に萎んでしまって、音様の服の裾を掴めば音様は嬉しそうに目を細めて首を振った。

「違うのだ。昨日の夜、今日、なまえに会えると思ったら楽しみで眠れなくて。だから今朝うっかり……、っな、何でもない!今朝は何も無かった!」

あくまで寝坊した事に関しては隠し通す気の音様に苦笑が零れると同時に、音様が私に会う事を楽しみにしてくれているという事が嬉しくて可愛らしい顔を保っておく事が出来ない。きっと今私の顔は変になってしまっている。

「あ、じゃ、じゃあ、きっと私の夢を見てくださったのね。だって、そんなに私の事を昨夜考えてくれたのでしょう」

自意識過剰とも取れる私の言葉に意外そうな顔をした音様は、少し微笑んで首を振った。その答えに喉が締め付けられるように苦しくなったけれど、音様は続けて口を開く。

「早く逢いたくて、待ち遠しくて昨夜は眠れなかった。夢など見ようが無い。だが、そのせいで……朝食の時少し転寝してしまってうっかり珈琲を零して……、」

最後の言葉はもごもごとして良く聞き取れなかったが、音様の今朝の話は既に私の頭からは飛んでしまっていた。待ち遠しくて、眠れなくて、早く逢いたくて。その言葉が、過ぎた言葉が恐ろしく私の中ぐるぐると駆け巡っていた。嬉しいのに、その幸せが身に過ぎて怖い。

「と、兎に角!本当にすまなかった……、なまえを待たせて……!?」

「嬉しい、嬉しいです……、私も音様に逢いたかった……」

身体が勝手に動いていた、とでも言えば良いのだろうか。気付けば私は音様の厚い胸に頬を寄せていた。高めの体温が服越しにも伝わってきて、愛おしい。音様は慌てたように私の肩に手を置くか置かないかの微妙な位置取りをしていたが、それでも私の背に腕を回してくれた。

「ずっと、逢いたかった。前にあった日の夜からずっと、なまえに逢いたかった」

静かな低い声に背中を甘い痺れが走る。ずっとこのままでいたかった。それは物理的にも立場的にも叶わない夢だとは知っていたけれど。

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