その人を美しいと思う事に理由など要らぬと思った。完成された美しさ、私を導いてくれたその人が成した子だと言うのなら、その娘もまた私にとっては美しく完成されていたのだから。初めて彼女をその目に映した時から、私の中で彼女は美しくそして完成されていた。それ以上に言い様が無く、私は己の語彙の貧困さをしばしば呪った。
初めて彼女と、なまえさんと顔を合わせたのは私が士官学校に入学した頃だった。父との関係やその他様々な事で世話になった鶴見中尉に挨拶に伺った時の事だ。彼女はいた。初めて彼女を目の当たりにし、その声を聞いた時、私は己の目と耳が壊れたのではないかと錯覚した。それ程に彼女は美しく、魅力的であった。
「お父様、ご紹介して下さいな」
薄らと笑みを浮かべ、澄ました顔で佇むなまえさんは私よりも年下だろうに随分と大人びて見えた。恐らくもう、社交の場に出て暫く経っているのだろう、その態度に私は素直に憧れた。父と折り合いが悪くなってから暫く私は殆ど父の知り合いの人々とは顔を合わせておらず、今でもそういう場に出るのは少し勇気がいる事であった。
「なまえ、こちらは海軍中将の鯉登平二閣下、そしてそのご子息の音之進くんだ。閣下、こちらは娘のなまえです」
「初めまして、中将閣下の御話は父からいつも伺っています。とても御立派な方なのでしょう?」
にこり、と花のような笑みを浮かべるなまえさんに心臓が音を立てる。話し掛けられた訳でも無いのに顔が熱く、手が汗ばむのを私は何気ない風を装って服の裾で拭った。父上と一通りの挨拶を終えたなまえさんの瞳が巡りその輝きが私だけに向けられた時、私は不思議と吸い込まれるような感覚に陥って、地面から両足が離れてしまったような不安定な気分を味わった。
「御立派なお父様がいらっしゃる音之進様が羨ましいわ」
悪戯っぽく笑ったなまえさんは私の方に近付くとそのまま私の両の手を取る。驚きに目を見開き言葉も出ない私になまえさんは美しく微笑むと、「私たち、良いお友達になれるかしら」と言った。いや、言って下さった。
「あ、い、いや……あの、は、はい……」
「なまえ、不躾だろう。慎みを持ちなさい」
「……はあい、ごめんなさい」
しどろもどろの返事しか出来ない私に鶴見中尉は眉を顰め、咎められた彼女は唇を尖らせる。私のせいで彼女が叱られるなどという事があっては事だと私は慌てて首を振った。
「か、構いません!おいも、なまえさんとその、ゆ、友人に……、なりたいとおもっちょります……」
「音之進……!」
父上の呆れたような、しかし笑いを含んだような声に居た堪れず俯く。なまえさんを見る勇気も湧かず、しかしいつまでも彼女の手に触れている事も恥ずかしく、穴でもあったら入りたい気分だった。それなのになまえさんは更にぎゅうと強く(尤もそれは男子の私からしてみれば随分弱い力ではあったが)私の手を握った。
「嬉しいです、ねえ、お父様たちがお仕事のお話をしている間、あちらでお話しましょう?ねえ良いでしょう、お父様、中将閣下?」
「全く……、申し訳ありませんな閣下、不肖の娘でして」
「いいえ、可愛らしいお嬢様をお持ちのようで」
父も珍しくご機嫌で(きっとなまえさんの爛漫さに中てられた事もあるし、私に同年代の友人がいなかった事を父が心配していた事もある。大部分は前者であろうが)、呆れた様子の鶴見中尉に鷹揚に頷く。二人の保護者の許しを得た事で私の感情は俄かに浮足立つ。勿論なまえさんと二人きりで話が出来るのは嬉しかったが、かと言って私は女子の喜ぶような話題も知らずなまえさんを満足させられるとは到底思えなかったからだ。私の手を取ったまま父上たちから少し距離を取ったなまえさんは年相応の邪気の無い瞳で私を見上げた。その可愛らしさに感情が羽で擽られたような気分になる。
「改めまして、鶴見なまえと申します。よろしくお願いしますね、音之進様」
「そ、その……、音之進様などと、堅苦しい呼び方は必要ありもはん……、おいは別に、何者でもなかとじゃで……、」
不甲斐ない事になまえさんの顔も見れず、彼女の爪先の辺りを見詰めながら言葉を紡ぐ私になまえさんが首を傾げるような気配がした。少しの間沈黙が私たちの間を流れ、その沈黙の余りの重さに遂に私が押し潰されそうになった時だった。不思議そうな声が聞こえたのは。
「でも、音之進様は音之進様でしょう?他に何てお呼びすれば良いの?」
はっと顔を上げればそこにあったのは強い光だった。強くて、直視してしまえば目を焼いてしまいそうな程の。魅力的と言い切るには最早毒にすらなりそうな黒灰色の瞳が私を貫いていた。返答の言葉を忘れただ、その瞳に射抜かれたまま阿呆のように呆けている私になまえさんは続けた。
「あなたは音之進様でしょう?御立派な家に生まれ、御立派な両親を持ち、将来を嘱望され、あなた自身それを当然と思っている。誰からも愛されて、素敵ね。ねえ、そんな音之進様を何て呼んだら良いのかしら?」
それは紛う事無き敵意であった。覚えの無い敵意に私がおろおろと無様に口篭もっているとなまえさんは詰まらなさそうに息を吐いて肩を竦めた。そのため息がまるで私を見限るかのようで、私は何か言わなくてはと必死に頭を回したが、言葉は何一つ私の喉から出てこなかった。嘆かわしい程に情けない自身に涙すら滲みそうになっているのをなまえさんに気取られないように鼻をすすると、彼女は少し眉を下げてそれから父上たちの方を見やった。
「素敵なお父様ね。気付いてらして?父との会話の間にもあなたの事を時々見てらっしゃるわ」
「え、あ、それは……、おいがあなたの機嫌を損ねんか心配して、」
「そう。…………気に掛けられているのね。……羨ましい」
ぽつりと零された言葉が痛々しかった。あれだけ立派で美しくて完成された方を父に持つなまえさんが放つ言葉に乗せられた悲しみの大きさは、何も知らない私にすら感じられる程で。なまえさんと鶴見中尉の間に何があったのかは分からずとも、私と父上の間にある何かが二人には決定的に欠けているのだろうと、私は出過ぎたことながらもそう感じた。結局それからなまえさんは私と一言も口を利いてくれる事は無く、別れる時の挨拶も酷く形式的なものだった。重苦しいものを感じながら父上の後をついて階下に向かおうとして擦れ違ったいけ好かない顔の男と睨み合った時、上階からなまえさんの嬉しそうな声が聞こえた気がした。
百之助、待ってたわ、と。
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