「音様……?」
「っ、な、なんだ?」
「私の顔に、何かついていますか?」
あんまり音様の視線を感じるものだから少し悪戯心が湧く。今までに出会ったどんな男よりも、音様には触れたいと思ってしまう。それは往来では許されない事なのかもしれないけれど、少しだけ音様の方に身体を寄せた。私が作った不思議そうな表情と声音に音様は目に見えて挙動不審になる。
「い、いや、そんな、違う……!なまえの顔はいつも通り、う、美しい!」
「……っ、あ、あら。じゃあ、どうしてですか?」
音様の言葉に一瞬心臓が妙な方向に跳ねたがそれでもそれを我慢して音様の目をじっと見つめる。知性的な、切れ長の瞳が困ったように歪んで、凛々しい顔には朱が上る。男の人には従順にしなければならないのかも知れないけれど、でも私如きに翻弄される音様は純粋に可愛らしかった。
「ねえ、音様、私に気になる事があるならおっしゃってくださいな。私、音様のお心に適う女になりたいのです」
「う、なまえ……、あの、」
ぎゅう、と恥じ入るように唇を引き結んだ音様はこれでもかという程顔を赤らめてそれでも私の顔を見つめた。真っ直ぐな瞳が私の視線と絡む。周囲の音が消えて、どき、と心臓が音を立てて、音の無い世界で音様が口を開くのが見えた。
「その、なまえ……。手を出してくれ」
「……?こう、ですか?」
言われた通りに掌を表にして音様の方へ差し出す。音様は尚も迷うように視線を彷徨わせた後、そっと、私の掌の上にそれを乗せた。蒔絵細工の施された美しい意匠の小さな器をそっと開けてみれば、上品な赤が目に入る。それは練り紅であった。
「……紅、ですか?」
「……あの、気を悪くしないで欲しいのだ。だが、なまえにはもう少し淡い、そういう色が似合うのではないかと……、」
ぱっと咄嗟に唇に手をやってしまった事に音様は目に見えて狼狽えた。ああでもないこうでもないと必死に言葉を重ねているようだったけれど私にはそんな事どうでも良かった。
「あの、これ、音様が選んでくださったの……?」
「う、うん……。あ、いや……この間の小間物屋の店主に色々聞いた。ほとんどは店主任せだ……」
……私に、女の紅の色を選ぶ感性は無かったようだ。
決まり悪そうに俯いて、そして音様は瞳だけで私を窺った。まるで悪戯を叱られた子どもがしょぼくれているかのようなその表情に、私の感情を握られるように苦しくなった。尤もそれは良い意味でというか、否定的な意味ではなく。言い方は難しいが「ああ、私は音様の事が」そう、思うような感情の握られ方だった。
「す、すまない……。気を悪くしただろう……」
「いいえ」
「……へ?」
ぽかんと間抜けな顔をしている音様にくすくすと笑って、私は袂から懐紙を取り出すと紅を拭う。私の意図が掴めないのかぽかんとしたままの音様に、少し頼んで携帯していた手鏡を持っていてもらう。それからそっと渡された紅の蓋を開け、少し迷って薬指でそれを掬う。
「……っ、」
音様が息を呑んだのが分かった。私も何となく、その意味が分かった。音様の選んでくれた紅は私にぴたりと合う、理想的な色合いだったからだ。私の持っていた安物のそれのように濃過ぎず、かといって淡過ぎないその色は私の肌の色とよく馴染んでいた。
「……似合いますか?」
「…………」
「音様……?」
真っ赤な顔で目を見開いて固まる音様を見上げれば、音様は意識を取り戻したようにその瞳の色を強くさせる。それでもまだ、言葉は思い付かないらしくて要領を得ない言葉をもごもごと口の中で転がしていた。
「っ、あ、いや、良く似合って……、その、う、美しい、と思う」
「本当に?嬉しいです」
未だに私に捧げられるように音様は手鏡を翳していて、今一度私は鏡に映る自分の顔を確認してみる。私を見つめ返す私の顔は、いつも通りだったけれど薄い化粧に上品な唇の色は、いつもの私じゃないみたいで少し擽ったい。音様に礼を言ってから手鏡を受け取り、紅の付いた指も拭えば、残されたのはまだ少しぼんやりとした様子の音様と私だけであった。
「音様?あんまり見られては恥ずかしいです」
「ああ……、済まない……、」
先ほどとは違う種類の視線が私の方を向いている事が落ち着かない。少し居心地が悪くて目線を下げれば音様はそれを許さないとばかりに私の頤を指で押し上げて上向かせた。
「これで、なまえの持ち物に、私のものが二つ加わった……」
うっとりとした陶酔に浸ったような声音は少し恐ろしいくらいだ。私にはそれ程の価値は無いというのに。音様のとろりと溶けたような甘い色を湛えた瞳に無理矢理笑って見せる。私の頤に触れる音様の手を両手で握れば、音様は少し驚いたように目を開いた。
「嬉しいです、ありがとうございます」
大きくて硬い手をきゅ、と握れば音様ははにかんだように微笑んで、私の手をそっと握り返してくれた。心臓が握り締められたように痛くて走った後のように早かったけど、それは嫌なものではなくて、もう私は誤魔化す事は出来ないのだと気付いていた。
音様の事が、好きなのだと。
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