その娘の噂は第七師団でも「知る者ぞ知る」というやつだった。つまりこの頃急速に求心力を強めている大日本帝国陸軍中尉鶴見篤四郎が娘、鶴見なまえの噂である。存在の噂はあれど、一向に実体は見えてこない。頑なに隠されていると言われても納得してしまうような娘の輪郭に興味を持ったのは俺だけではないようであった。しかしながら近付く機会など早々ある筈も無く。俺がなまえに近付いた最初の切っ掛けは「ただの興味(或いは本能)」、それ以上でも以下でもなかった。
「あなた、誰」
初めて見た時は随分気の強そうな娘だと思った。目鼻立ちのはっきりとした顔は俺への不信感を露にし、確りと両足でたっている姿は己が選ばれた存在であると生まれながらに分かっているかのようであった。
「父の部屋ならあっち。ここはあなたみたいなのが来る所じゃないわ」
俺の纏っている物や態度から俺の所属を察知したのか(成程、頭も悪くない)途端に気怠そうな顔で俺の背後を指差した娘が噂に聞く鶴見なまえだという事は疑いようが無かった。
「あんたが噂に聞く鶴見家の御令嬢か」
「噂に聞く、って何かしら?」
中々去ろうとしない俺を値踏みするような目で上から下まで見たなまえは俺の言葉に詰まらなさそうに肩を竦める。その表情の何と父君によく似た事か。「俺自身」と被って笑いが込み上げそうになる。
「あんたの事は聯隊内でも噂になってる、つまり」
「この頃目立ってる鶴見の娘は、彼の弱味になるかしらって?」
滑らかで柔らかそうな髪をゆっくりと耳にかけて(まだ年端も行かない餓鬼の筈なのに妙に艶やかさが目に付く)下らなさそうに息を吐いた娘は胸の前で傷一つない手を組むとにこり、と美しく微笑んだ。まるで新しい物事を教わった子供が得意げにそれを披露するかのように。
「なる訳、ないでしょう?」
当然と言えば当然の事なのだが、それを本人の口から聞けるとは思わず眉を上げた俺に娘は表情を消し去って、冷たい顔をする。先ほどの花のような顔が嘘のような、しかしそれすらも本能を擽るような酷薄な顔に知らず喉が鳴る。
「私を傀儡に落とし込みたいなら甘いお菓子が沢山必要なの。勿論洋菓子よ、私和菓子大嫌いだもの。……それから当たり前の事だけど、名前も名乗らない不躾な男を従者にする気は無いわ」
つい、と顔を背けて腕を組んだ娘に笑いが込み上げる。大人ぶっているのかはたまたそれがこの娘の本質か。
「これは失礼しました。自分は尾形百之助と申します。御父君には平素よりお世話になって、」
「そういうの要らないわ。今ここに父はいないし、私の父が戦場で何人死なそうと殺そうと私には関係無いもの」
苛烈な性格は父親譲りか、或いは世間知らずが故の放言か。あの鶴見篤四郎と雖も娘の教育には失敗したようだと、苛立ちというより呆れの方が勝る感情を覆い隠すように薄笑いを浮かべていれば娘は上目に俺を見詰めて唇を尖らせた。
「あなた、あまり面白くないわね」
「はあ、それは失礼しました」
「今まで私が会ってきた人は皆私のご機嫌伺いに必死なの。私がどれだけ失礼な事を言ってもにこにこ笑ってお世辞に巧言、馬鹿みたい。こんな成人もしてないただの娘に、馬鹿みたい……」
面白くなさそうに目を細めた娘はそれからゆっくりと瞳を巡らせて再び俺を見た。黒灰色の瞳は煌めく光を帯びて魅力的に輝いている。少し吊った目もその物言いと合わせてみれば魅力的に見えるのだろう。整った部品が絶妙の均衡で配置された娘の顔は、年端も行かぬからこその危うい色香があった。言うなれば「物にしたい」とでも言わせるような欲を掻き立てる色香が。
「あなたに名乗らせて私が何も言わないのも失礼ね。私は鶴見なまえ、大日本帝国陸軍中尉鶴見篤四郎が娘。……ただの、娘よ」
娘は、なまえは嫣然と微笑むとその場で美しく一礼して見せる。それから黙って微笑み、俺の背後を手で指し示した。帰れと言う合図だとは分かっていたがここで帰った所で次に会った時にはなまえには俺の事など一粍も残らないだろうと考えたらそれはそれで面白くなかったので俺は頷いて手を差し出した。
「……何かしら」
「知らないのですか?西洋での挨拶ですよ」
「握手くらい知っているわ。でも、どうしてそれをあなたとしないといけないのかしら」
不審そうに俺を見上げるなまえに俺も微笑んでみる。胡散臭さしかないだろうその笑みになまえが顔を引き攣らせたので僅かに溜飲が下がった。
「お互いに自己紹介をしたのですから、我々はもう『友人』という事になる」
「……はあ?『友達』?あなたと、私が?」
馬鹿馬鹿しそうに鼻を鳴らしたなまえだったが、次の瞬間には享楽的な顔で婀娜っぽく笑う。そのまま足音も無く俺との距離を詰めた彼女の白い柔らかな手が、俺の武骨な手に静かに触れた。
「嬉しい、私お友達って初めて」
見透かすような目が俺の目から内心を探るように見詰めて来る。吸い込まれそうなその瞳は確かに父親のカリスマと似た物を俺に感じさせた。
「私の事はなまえって呼んで頂戴な」
「では僭越ながら。俺の事はお好きに呼んで下さい」
「お友達なんだからその口調は駄目よ、百之助。あなたの本質は私に放った第一声の方でしょう?」
くすくすと笑い声を零したなまえは手招きで俺に膝を折らせると自身の顔を近付ける。拒否せずにいると、なまえは俺の頬にその唇を落とす。これには僅かに意表を突かれたと反射的に眉を上げれば、なまえは意味深に微笑んで「これも西洋の挨拶よ、知らないの?」と宣った。
「知っている事は知っているが……。俺みたいなのにするとは思わねえな」
「私たちお友達じゃない。ね、これからも遊びに来てね」
きゃっきゃと僅かに年相応に燥ぐなまえに内心でほくそ笑む。少なくともこの娘の感情に爪を立てられた事に満足して。
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