救い主、汝の名は

自分がどんな顔をしているのか、分からなかった。視界は滲んだ涙でぼやけていて、ただ目の前の音様の愕然とした表情だけが妙にくっきりと私の目には映って見えた。

「なぜ、私の兄の名を……」

唇を震わせて、もう一度そう呟いた音様はそのままぺたりと尻餅をついて項垂れた。おずおずと起き上がった私は混乱していた。救い主の手布の事を、どう話せばよいのか思案していた。

「音様……」

「っ……!」

意を決して口を開いた時、音様は怯えたように息を詰めた。それから泣きそうな顔で私の顔を見つめた。私はその表情に意気地を挫かれながらも、これまであった、誰にも言わなかった事を、話そうという意思を固めた。

「父が清国との戦で亡くなって、私がこの店に売られる日、私は死のうと思ったのです」

「…………」

音様は何も言わなかった。ただ、私の父が戦死したと言った時、その表情に僅かに悲しみが見て取れた。もしかしたら音様も、そう思ったけれど、聞く事は出来なかった。話してしまわないと、その思いの方が強かった。

「でも、死のうと思った時に私にもう一度、生きる勇気を与えてくださった方がいたの。これが、その方との約束の証……。どんなに苦しくても、私が生きて来れたのはこの手布を、いつかあの方に返すため……、」

そっと、抽斗から取り出した白くて柔らかなそれには、何度も目に映し舌の上で転がした、「平之丞」という名が刺繍されていた。それを見せた時、音様はまるでこの世には起こり得ない、さながら奇跡か何かを見た、そんな顔をしていた。そして、そして。

「……っ!」

「なまえっ……!」

気付いた時、私は音様の熱い腕の中にいた。身動きの取れないくらいにきつくきつく抱き締められて、私の肩口は濡れていた。音様が泣いているのだと、知った。

「音様……、泣かないでください……全て私が、」

「違う!違うのだなまえ……!それは、その手布は……!」

その瞬間、周りの空気が嘘のように静かになった。あれだけの猥雑な空間が、まるで凪のように静謐さを持って私たちを包み込んだ。

「……え?」

声が震えた。音様は今、何と言ったのだろう。聞き違いでなければ、この手布は「私が持っていたものだ」と、そう聞こえた。

「どう、いう……」

「同じだ。私の兄も、清との戦で死んだ。これは間違いなく兄の形見だ。お前が……あの時の、少女なのか……?」

震える声が、震える指先が、私の身体を撫でていく。信じられないものを見るように、音様は私の頬を撫で、知らずに零れていた涙の跡を拭った。

「…………おと、さま、……」

信じられなかった。もう何年も前の、本当は私自身もう一度会えるとも思っていなかった救い主に、まさか会えるなんて。そしてその正体がまさか、音様であったなんて。

「ずっと、気に掛かっていた。あの少女の事。夜毎星に願っていた。この空の下で、少しでも幸福であれと。あの少女は、お前だったのか……」

音様の頬を一筋涙が伝う。それは悲しみと、それでいて安堵を含んだ涙だったように、私には見えた。音様は静かに私を抱き寄せた。まるで私の存在を確かめるかのように。

「おとさま……」

呆然と彼の名を呼ぶ。音様は私を抱く力を強くして、それを返答とした。もう一度音様の名を呼ぶ。抱き締める力が更に強くなった。

「私の、救い主は……、音様、でしたの……?」

「……そういう、事なのだろう。私自身、信じられないでいる。ずっと、ずっとずっと気に掛けていた少女が、まさか……」

私の背を音様の大きな硬い掌が撫でていく。私の輪郭を確かめるようなその動きは私の涙腺を顕著に刺激した。

「あの時の音様の言葉があったから、私は生きて来られたのです。辛くて辛くて挫けそうになった時、音様の言葉が私を奮い立たせてくれました。今日、これ程までに生きていて良かったと思った日はないわ」

滲んだ涙を隠すように、音様の胸に顔を寄せる。息を吸えば音様の香りがして、安堵感からか、また涙が滲んだ。

「私もだ。あの少女が、お前が、生きていて良かったとこんなにも強く思った日は無い。あの日あの場所で、お前を見付けられて良かった……。なまえが、生きていて良かった……」

音様の腕の中、彼の顔を静かに見つめ上げた。音様も私の顔を見ていた。先程までの荒ぶった表情が嘘のように凪いだ顔をした音様は、私の頬に手を添えて、顔を上向かせた。

まるでそうするのが当然と言うかのように、私は音様を受け入れ、私は初めて、何も考える事無く音様からの愛情を享受する事が出来たような気がした。啄まれるような口付けは私の存在を確かめ、肯定するようにずっと、ずっと続いた。幸せだと思った。この世に生まれて初めて私は己の事を、ああ私は幸せな人間だったのだと、知った。

名前も知らない救い主に命を救われ、彼に幸福を願われ、大人になった今、彼と再会して愛されている。その事が酷く幸せで堪らなかった。生まれて来た事を、名前も知らない神にただひたすらに感謝した。

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