有神論と無神論の狭間

目蓋を持ち上げるのが酷く億劫だった。目が覚めても幸せな事なんて無いと知っていたから。それに目を開けたら「彼」がいる。どんな顔をして良いのか分からなかった。

彼はとても献身的だった。言葉こそ無かったが私の状態を常に気遣い、ともすれば私のために生きているのではないかと錯覚させるほどの献身を見せた。

死んでしまいたいと思っていたのに、その献身が私の覚悟を鈍らせた。彼が私をどう思っているのか、知るのが怖くて堪らなかった。

だから、あの時と同じ事をしようと思った。

この献身に低俗な対価を返して、無かった事にしたかった。

***

濡れた手拭いが背中を這っていく。繊細な手付きで彼は私の着替えを手伝ってくれていた。言葉は無い。彼が何を考えているのかは分からない。

背中が終わると手拭いを手渡される。いつもなら彼は暫く家を出るのだ。私が服を整えるまでの間。

でも今日は彼が立ち上がるより先に、その腕に手を添えてなぞった。彼の目を見る。口付けは、出来なかった。病魔が私の中にいたから。

「…………旦那、さま」

精一杯の甘い声は震えていた。それは多分、怖かったからではなく、もう、私の声が芯を失っていたからだ。

誤魔化すように彼の頬に触れる。その目は昏く、色が見えなかった。頬を撫で、耳の形を確かめるように輪郭を検めた。彼が目を細めたのが見えた。

「、っ」

当然のように、唇を奪われた。それでもそれは触れるだけの児戯に等しかった。身体に回る腕は力強くでも頼りなかった。何も知らない子供のように、彼は私を抱き締めていた。

「わたし、結核で、」

解放されて一番に言いたかったのは、忠告だった。こんな女のために、彼の命が削られるのは駄目だと思った。それなのに、彼の返答は同じだった。

「だから?」

「あなたに、移してしまう……」

「…………」

何を言っても無駄なような気がした。彼は同じ事があったら何度だって私に口付ける気がした。彼の献身を、私が穢す事は出来ないと悟った。そうしたら、自分が恥ずかしくなって、消えてしまいたいと思った。

「……療養所に、いくわ」

それは何処かで考えていた選択肢だった。どうせ助からないなら療養所で死のうと。最期まで誰にも迷惑をかけたくなかった。それだけが、私のなけなしの矜持のようなものだった。

「……行ってどうすんだ」

「どうもしない。…………し、死ぬのを待つの」

情けない事に「死ぬ」と言う時に声が震えた。私は死ぬのが怖いのだろうか。震えは当然彼にも聞こえたようだ。彼はため息を吐いた。諦めにも似た嘲笑が転がった。

「声、震えてる。怖いんだろ」

「っ、当たり前だわ!怖くて堪らない。でも、ここにいたら、」

ここにいたら、音様を忘れてしまう。

そう思った。ひと時の安息に身を浸してしまいそうだった。私が誰にでも尻尾を振る人間では無いのだと証明したかった。

「療養所に行って、死ぬのを待つわ。どうせ家族もいないもの。……私がいなくなったって、誰も、っ」

「…………『あいつ』は?……あのボンボンは、お前が消えたら死に物狂いで捜しそうだけどな」

息の仕方を忘れた気がした。誰の事を言っているのかすぐに分かってしまって。どうして彼が音様の事を知っているのかは分からないけれど、彼が私たちの関係を知っている事が恐ろしかった。

「っ、あの人には、何があったかなんて言わないで。全部私が悪いの。私が、ぜんぶ、っ」

ぜいぜいと喘鳴がする。声を荒らげ過ぎたせいだろう。彼がそっと水差しから水を注いでくれた。

「お願い、何も言わないで。あの人の、邪魔なんてしたくない……。そのためなら、何でも、するから」

縋るような私の言葉に、彼は視線を僅かに下げた。それは苦悩のように見えた。でもその感情の片鱗はすぐに消えて彼はまた、私の目を見た。感情を消そうとして失敗したような表情を見せる。

「ここにいろ。……どの道療養所は金持ちしか入れねえよ」

「……は、い。……他には、何をしたら、いいですか?」

着物の帯を少し緩め、言外に対価を見せる。はだけた胸元に手が伸びて、そして、袂を直された。

「え……」

「寝てろ」

それきり私から離れていく彼を呆気に取られたまま見送る。話はお終いとばかりに、いつものように家を出ていく彼にかけるべき言葉は見つからない。

仕方なく渡された手拭いで身体を清める。外気に触れた肌が少し冷えている。いつの間にか夏が終わっていた事に、私は漸く気付いた。

煌々と輝く月を見ていたら、彼が帰ってきた。まだ、だらしない格好をしていた私に呆れたため息を吐き、服を整えてくれる。そのまま私を寝かせて、彼はまるで以前からのように自然に私の隣に寝転んだ。

「あ、の、」

「寝てろ。顔色が悪い」

「でも、旦那さまは……」

有無を言わせないように、腕の中に引き寄せられた。これまで彼は私が気を遣わないようにという配慮からか夜はいなくなる事が多かった。久しぶりのような気がしてならなかった。一つの布団で誰かに抱きしめられるのは。つい先日まで似たような事を沢山してきていたというのに。

「なまえ……。…………なまえ、」

感情の籠った声だった。その声に返事をしたら、何かが決定的に変わってしまいそうで、私はただ目を瞑ってその声をやり過ごしていた。

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