柔らかく温かい綿のように

音様に惹かれている私がいると、私は気付いていた。優しくて、私を普通の娘のように扱ってくれて(勿論それは彼が私を知らないからに他ならないのだけれども)。彼に触れて、私は久し振りに人間の、人の温かみを思い出したような気がした。人間以下だと思っていた自分の存在を、肯定しても良いのではないかと時々思えるようになった。この世界は生きるに値する、価値があるのではないかと。

音様に会うのが待ち遠しい。彼の前では私は普通の娘のように振る舞う事が出来る。お勤めを一時忘れて、私に付随するあらゆる束縛を忘れて。次に音様と約束した日を、気付けば指を折って数えている自分がいる。一日に何度数えても指を折る本数は一日に一本ずつしか減らなかったけれど、指折る度に彼の太陽のような笑顔が思い起こされて、その度にあたたかな気持ちになって顔が緩んだ。早く、音様に逢いたい。

その日はやはり気持ちの良い晴れの日で、気温もそれ程高くも低くもなく過ごしやすい日であった。お互いの事をほとんど知らない私たちの逢瀬は当然外である訳で、私としては天気の事を一番心配していたから朝、障子の隙間から差す光を見てほっと息を吐いた。

いつものように客を見送って湯屋に行き、店に返ってきて薄化粧を施す。紅はやはり赤過ぎるものしか無くて、仕方なくなるべく懐紙で色を滲ませる事しか思いつかなかった。姿見の向こうにいる私は落ち着いた雰囲気を醸し出していたけれど、唇だけが妙に赤く浮いていて、その不自然さが嫌で、私は少し乱暴に姿見に覆いをかけて店を後にした。

約束の時間までには随分早かったけれど、前回音様を待たしてしまった分、今度は私が待ってやろうと意気込んで早めに出た積もりだった。店を出る直前に確認した時計は約束よりもずっと早い時間を示していたから大丈夫だろうと思っていたのに。そのはずだったのに。

「なまえ!」

「お、音様……!」

彼はいた。待ち合わせ場所に、私を見つけるなり満面の笑みで。嬉しそうな顔は少し上気していて彼の感情を露にする。犬であれば(例えは失礼だけれど)尻尾でも振っているんじゃないだろうかというような、傍から見ていても分かるような喜びようにこちらも自然と笑みが零れた。

「来てくれたのだな!」

「ええ、それは当然ですけど、ねえ、音様?約束の時間までずっと間がありますけど……、」

「だって待ち切れなかったのだ。それに遅刻してしまってなまえを待たせては事だからな」

私の恐縮には気が付かなかったのか得意そうな音様は子どもみたいで、うっかり苦笑が漏れる。まるで小さい男の子が初めて好きになった女の子を追いかけるようなそんな可愛らしさを感じてしまって。音様は私の苦笑に少し不思議そうに首を傾げたが、何も言わなかった。ただ、先ほどの子どもっぽさが嘘のように急に大人びた、少し艶やかすぎる程の美しい笑みを見せる。

「なまえに会いたくて、ずっと今日を指折り数えていた。早く会いたいから早く邸を出た。当然の事だろう?」

低くて落ち着いた声が心臓を鷲掴むように通り過ぎて行く。心臓が耳許で跳ねるような気がした。顔が熱い。

「…………、そ、そう、」

やっと口に出せたのは素っ気ないたった一言だけで、いつもお勤めの時の良く回る口はどこに行ってしまったのだろうと悔しかった。音様の前では可愛らしい女の子でいたかったのに。

「うん、そうなのだ。だがなまえは私を待たせるからと早く家を出る必要は無い。むしろ時間通りに出発しろ。私はなまえを待つ時間も楽しんでいるのだからな」

微笑む音様の瞳にどんな色が乗せられているのか、見ることは出来なかった。もしその色を知ってしまったら本当に、私は音様に私の心をあげてしまうのではないかと、そんな恐ろしい予感がしてならなかったから。

「……、私も、音様に早く会いたかったです。音様とお揃いね」

何でもない振りをして、音様の首許辺りを見つめるようにして声を作った。きっと自然な声だっただろう。私でさえ、そう思ったのだから音様には覿面だったようだ。

「そ、そうか!なまえも……!」

きゅうと人懐こそうに笑う音様は美しくて清らかで、この世の全ての善いものの上澄みを掬い取ったような人だと思った。触れる事すら畏れ多いはずのその存在に、それでも触れたいと願うのは罪なのだろうか。私には、私の感情も、私の正しい道行きももう、分からなかった。だから、今日だけは考えを放棄したい。

「ねえ、音様と街を歩きたいです。今日はこの間とは反対側の方へ行ってみませんか?」

私は可愛らしい女の子に見えただろうか。普通の、何にも無いただの娘に。男の欲を誘うような下卑た笑顔じゃなくて、もっと普通の笑顔を作る事が出来ただろうか。音様に、見合うような。

嬉しそうに微笑んで頷く音様に私も微笑み返す。今だけはただ普通でありたくて。

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