……気まずい。
上目でちらりと彼女の事を見詰めるもその視線が絡み合う事は無く、それどころか彼女は、なまえさんは詰まらなさそうにはあ、と息を吐いたから私の肩は慄くように揺れた。最近流行り始めた話題の喫茶店とやらに思い切ってなまえさんを誘ったは良いが話題らしい話題も見付けられず、ただ阿呆のように向かい合って座っているだけの私に彼女はきっと呆れたに違いなかった。
「……あ、あの、」
「……?」
腹を括って口を開けば、なまえさんの大きな黒い目がゆっくりと巡って私を映す。その瞳の力強さを見ると私はいつも何も言えない意気地無しになるのだった。何か一言だけでもなまえさんに物申して彼女の中に爪跡を残したいと思うのに。
「こ、珈琲以外にも、何か頼まれますか……、」
これからの士官は標準語の方が良いと言われて漸くお国言葉の矯正にも慣れ始めていたが今吐き出したそれは随分と浮いて聞こえる。自分の口から出る言葉がどうにも自分の言葉でないような気がして拳を握る私であったが、なまえさんはそんな私の意に反して僅かに目を輝かした。
「よろしいの?」
「へ?ええ……、好きな物をどうぞ」
予想外の彼女の喰い付きに少し驚いているとなまえさんは嬉しそうに頬を緩めた。品書きを渡せばなまえさんはそわそわとしながらそれを開き、それから気付いたようにそれを私の方に向けてきゅう、と笑った。
「音之進様も何か頼まれたら?」
「あ、いや、おいは……、あ、私は、」
「もう、無理しないで下さいな。今日は自分に御褒美をあげる日だと思って」
初対面の時の刺々しさが嘘のようににこにこと可愛らしく微笑むなまえさんを前にまさか断る事も出来ず、(甘い物が余り好きではない)私はみつまめを頼み、なまえさんはケーキを頼んだ。
「なまえさんは、甘い物がお好きなのですか」
「はい、とっても。父も甘い物が好きなので、遺伝かも知れませんわ」
運ばれてきたケーキを上品に口に運ぶなまえさんはくすくすと可笑しそうに笑う。幸せそうなその顔に私も嬉しくなってしまって微笑めば、なまえさんは少し不思議そうな顔で私を見詰めた。いつもの大人びた彼女の瞳が今はやや幼く歪んで私の心臓を刺激するように揺さぶる。矢張りなまえさんは可愛らしい、と強く思った。
「何か可笑しいですか?」
「あ、その、あなたが……なまえさんが、その、か、可愛らしくて、」
男子としてこれ程恥ずべき事があるだろうか。初対面と然程変わらない女性に好意を抱いているだけでも浮付いているのにそれだけでなく、その片鱗を相手に零してしまうなんて。だがしかし男子の本懐を打ち壊してでも、なまえさんに対して隠し事をしたくはなかったし嘘も吐きたくないと思った私は相当なのだろう。
なまえさんは目を瞬かせてきょとんとした表情をしていたけれど(その表情も幼くて可愛らしい)、くすくすと笑い声を上げだすものだから私は顔から火が出そうな思いであった。
「まあ、音之進様は面白い事を仰るのね。お世辞でも嬉しいです」
「こ、こんな事嘘では言いません!」
なまえさんの言葉を慌てて否定すれば、彼女は笑い過ぎて滲んだ涙を薄化粧を崩さないように拭いながら甘く微笑んだ。その頬が僅かに上気しているのは気のせいだろうか。
「ふふ、可笑しな音之進様。でも、嬉しい」
形の良い唇が綺麗な弓形に歪むのを見て何も言えない私を気にする事無く、なまえさんは今一度ケーキを掬い綺麗に口に運ぶ。幸せそうに味を堪能している様子のなまえさんに私も倣って私もみつまめを掬った。控え目な甘さでも私には十分すぎる程で少しばかり目を眇めたのをなまえさんは気付いたのだろうか、少し声を落として「音之進様は甘い物が嫌いなのかしら」と言った。
「……嫌い、と言うか。甘味は食べ慣れません」
「あら、天璋院さまは甘い物が好物だったと聞くわ。てっきり薩摩の方は甘い物が好きなのかと」
「ん……、それは天璋院さまが女子であったからでは、」
私の言葉に何が可笑しいのかくすくすと笑うなまえさんに私はびくつきながらも何が可笑しいのかと問う。なまえさんの機嫌を損ねてしまう事が今この場で何よりも恐ろしく、それを避けたいのに私には彼女がいつ気分を変えてしまうのか皆目見当も付かなかった。
「いいえ、別に音之進様の機嫌を損ねるつもりは無かったの。ねえ、御気分を損ねてしまったのなら謝ります」
「ち、違います!私はそんなつもりでは無くてただ、」
「ふふ、音之進様って真面目な方なのね。素敵だわ」
「っ、」
おろおろと無様な姿を晒す私になまえさんは艶やかに微笑むと、もう一度今度は密やかにしかし私にだけは聞こえる声で素敵、と繰り返した。途端に跳ね上がる心臓が送り出す血液が頬に上ったのか、妙に熱い顔を隠したいのになまえさんの輝く瞳が目を逸らす事を許さないのだ。
「う、おい、いや、私を揶揄って楽しいですか」
「揶揄う?そんなつもりは無いのに。正直でありなさいって私、いつもばあやから教わってます」
心外だとでも言うように唇を尖らせた後、悪戯っぽく笑ったなまえさんに私も眉を寄せて微笑み返してみる。その返しはどうやら正解だったようで気分を良くした様子の彼女は残っていたケーキを食べ切ってしまう。なまえさんを待たすまいと無理にみつまめを掻き込んで、示し合わせたように私たちは喫茶店を出るために立ち上がった。
「本当に良いのですか?私だってちゃんとお財布は持っているのに」
喫茶店を出て(彼女は私が有無を言わせずに会計をした事に頬を膨らませた)彼女を家に送り届けようと歩く道すがら、なまえさんは申し訳なさそうに眉を下げていた。元はと言えば誘ったのは私なのだから当然の事なのだが、彼女の様子が余りに心痛むので私は少し卑怯な考えを浮かべてしまった。
「……その、」
「ええ」
言葉が喉を出て来ない。こんな事を言って軽蔑されたらとか、大体こんな言葉は軍人にいや男子にあるまじき発言で、などという思いが頭の中をぐるぐると回る。なまえさんは少し首を傾げて私の方を見ていた。しかしもう一度反対側に首を回してそれからゆっくりと唇を持ち上げた。
「ねえ、音之進様」
「……はい、」
「今日のお礼にね、音之進様のお願いを何でも一つ叶えてあげます。私に出来る事、っていう条件はありますけど」
「……っ、」
どうして私の言いたい事が分かるのだろうと言いたくなるくらいに彼女の言葉は私が言おうとしていた事を代弁していた。彼女の助け舟に私も腹を括る。
「その、手を」
「手?」
「せめてご自宅まで、おいと、手、繋いで帰って貰えもはんか……」
驚いたようななまえさんの顔に委縮しそうになるのを必死に耐え、服の裾で拭った手を彼女に向けて差し出す。彼女は暫くぱちぱちと目を瞬かせていたけれど、不意に一際可笑しそうに微笑むと私の手を取って腕に自分の物を絡めた。
「可笑しな人。私と手を繋ぎたいなんて」
「……おいは、なまえさんこっが好きじゃっで」
一世一代とも言える私の告白は流されてしまったのかなまえさんからの返答は無かったが私はそれでも良かった。なまえさんは約束通り彼女の家まで私の手を離す事は無かったし、別れ際には「また誘ってくださいね」という言葉までくれた。きっと彼女にとって私は自分を慕う数多くの中の一人なのだろうがそれでも今、この時だけは彼女の中に私だけがいるような気分になってしまうのだから、私は愚かな事この上ないのだろう。しかしなまえさんの持つ魅力はそれすらも構わないと私に思わせてしまう、魔性のそれであったのだ。
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