漫ろ気

音様と別れて店に帰ってもまだ、私の感情はふわふわと宙に浮いたように軽やかに上下していた。こんな気持ちを抱いた事は無くて恥ずかしいようなむず痒いような変な心持ちだ。ともすれば顔が緩んでしまいそうになって、引き締めるのに苦労した。

明日、ここで待っている。少しでも良いから、気が向いたら来てくれないか。

別れる前、真剣な表情で、まるで私に乞うかのような声音で音様は言った。私は「私の境遇」を話してしまって約束は出来ないと言わなければならなかったのかも知れないけれど、何故かその言葉は喉から出てこなかった。音様に「私の事」を知られて、軽蔑されるのが怖かった。

その代わりに私は小さく、控えめに頷いてしまった。必ず行きます、とは言う事が出来なかったけれど、出来る事なら音様とまた会いたいと、私もそう思った。

「……はい、明日もお会いできる事を楽しみにしていますね」

「っ、ああ!私もなまえに会えるのを楽しみにしている!」

私の言葉に子どものように表情を明るくさせた音様に私も知らず顔が綻ぶ。何も知らない人が見たら、私たちは普通の男女に見えるかしら。素敵な士官と、ただの娘が話しているように。真実を知っている私はただ、今だけはそう見えて欲しいと願った。そして私は送って行くという音様の申し出を丁重に断って店に帰って来たのだった。

同じ店の妓が朝出ていったきり帰って来ない私を心配していたと口々に声を掛けてくれるのを、ありがたく躱しながら自室に戻って窓辺に身体を預ける。目はつい、往来を歩く人の顔を見てしまう。あの中に音様がいたら。そう思ってしまって。たとえ音様がいたとして声なんて掛けられる訳がないし、黙ってその背中を見送る事しか出来ないのだけれど、それでも彼が歩いて行く方向を想像したら、可笑しくなってしまって私は誰もいない自室でくすくすと密やかに声を上げて笑った。

可笑しかった。私の生きる世界では、男との触れ合いなんて仕事の時くらいしかほぼ無くて、むしろ金にならない、仕事でもない時に男と触れ合うなんてこっちから願い下げだとすら思っていた筈なのに。音様は何となくそれには当て嵌まらないような、違うような気がしてそれは素直に私を笑わせた。

彼に対するこの特別にも似た感情は私に何をもたらすのだろう。彼は、音様は私の新しい生きる希望に成り得るだろうか。それとも彼も他の男と同じなのだろうか。期待にも不安にも似た感情が少し、苦しい。それでも彼のあの図体に似合わない子どもみたいな笑顔は、思い出すだけで抱えた心が擽ったくて、じわじわとあたたかくなるような気がした。

彼と再び見えるためには、あと一つ夜を越さなければいけない。それは仕方の無い事で、私はもう何も思わないと思っていたけれど、少しだけ今日は指名が無くて綺麗なままで眠る事が出来たなら良いのになんて思ってしまって、ああもう可笑しくって堪らない。そんな事、ある筈無いのは分かっている。

さあお勤めの準備をしよう。明日の楽しみがあるだけ、今日の夜はきっといつもより良い。

それでも、こんな境遇への少しばかりの意趣返しだ。いつもはお勤めが終わって客が眠ってしまった後に、煌めく夜空の星々に「ここから出たい」と願うけれど、今夜はあの人の事を想おう。夜の静謐があの人を優しく包んで、柔らかな安息を得られるように願う。そして願わくばあの人が明日の待ち合わせの時までにほんの僅かで良いから私の事を思い出してくれるように。

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