それからも、私の日常は何も変わらなかった。音様とは次の約束などもうしていなかったし、たとえそれが無かったとしても私と彼が顔を合わせることは望むべくもない、二度とあり得ない事であった。しかし音様と私の住む世界が違うことくらい分かっていたとはしても、身を切られるような痛みは消えなかった。これは束の間それを忘れて高嶺の花に触れようとした私に対する報いなのだろう。
もう音様の事は忘れようと思った。彼は人よりも少しだけ困難な道を歩く私に神様が与えてくれた、二人目の救世主だったのだから。
***
それからも幾晩もの夜を越え、漸く私は「平常」を取り戻しそうになっていた。というよりも痛みが麻痺していったのだろう。音様の事に心を痛めつつも私は平然とお勤めをこなせるようになっていた。ともすれば音様の事を思い出してそのことで頭をいっぱいにしていたのは最初の内だけで、次第に彼の事を思い出す事も減っていく。それを寂しいとはもう思わないようにして。
転機は夜に訪れた。少しずつ、夏の暑さに気怠さを感じるようになったある夜の事。私は何となく気分が乗らなくて、お勤めの準備も中途半端にぼんやりと窓辺に寄りかかって僅かな涼を感じていた。お勤めまではあと四半刻くらいしかなくて、早く準備しなければいけないのに、化粧台に向かう事はどうにも億劫で私は深々とため息を吐いた。
感じている気怠さは最近ずっと感じているものだった。きっと心労が祟って身体に影響を及ぼしているのだろうと私は勝手に結論付けている。それでも夜の雰囲気を作り上げる三味が清掻を奏で始めた事に仕方なく重い腰を持ち上げた。
鏡に映る私の顔は虚無を綯い交ぜにした表情をしていた。もうずっと、そうだった。音様と別れたあの日から、私は何をしても感情が言葉にも表情にも乗らなくて、そのせいで固定客を随分とフイにしてしまっていた。遣手からも楼主からも苦言を与えられ始めていて、それでもどうにも出来なかった。
化粧台に向かいお勤めの準備をする。白粉を塗って紅を差そうとしてふと、いつもの紅が切れてしまっている事に気付いた。どうやらぼんやりしている間にうっかりと切らしてしまったようだ。何もかもままならない事ばかりだと、ため息を吐いてからふと、例の紅の事を思い出した。音様から頂いた例の紅。捨てようと思って結局捨てられなかったそれをそっと掬う。引いた紅はやっぱり控え目な色合いで、お勤め用の濃い化粧には余り馴染んではくれなかった。
***
ぼんやりと、今日の相手を待つ。今日は誰が私を買うのだろう。馴染みだろうか、それとも初見だろうか。いずれにしたってやることは一つなのに。文机に肘を突いて息を吐く。背後で襖が開いたので振り返ってみれば、遣手がいた。
「指名が入ったよ。準備しな」
簡潔にそれだけ言って踵を返した彼女に私も居住まいを正して部屋の襖に相対して座る。足音が聞こえて、それがどうにも聞き覚えのあるような気がして内心で首を傾げながら私は滑るようにして開いた襖の向こうの客に対して、挨拶をして顔を上げた。
「……え、?」
「……、なまえ、」
空気が凍った気がした。息が上手く吸えなくて、喉が締め付けられたように痛んだ。何か言わなければいけないと、思ってはいても言葉は喉から出てこなかった。
そこにいたのは、今夜私を買ったのは、音様だった。
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