私を通り過ぎる人々

あれから幾年が過ぎただろう。私は今も生き永らえていた。或いは生き恥を晒していたのかも知れないが、それでも私は生きていた。何度も明日の朝を迎えたくないと思って、その度に彼の救い主の事を思い起こして身を奮い立たせた。眠れぬ夜に彼の人の安らかな寝息を想像して、傍らの気配に目を瞑った。立ち止まってしまう度に、私の背を押したのは確かに名前も知らない救世主その人であった。

そうして私は大人になった。感覚は疾うに麻痺していた。何とも思わない男に媚びを売るのも足を開くのも、嫌悪していた当初が嘘のように、私は息をするようにそれをやってのけた。私は存外上手にこの世界に馴染んでいた。上手に、というと語弊があるかも知れない。でもそう言う他無いのだ。私と同じ境遇の妓の中には、馴染むのが下手で潰れていった者も沢山いた。数年もここで過ごしていればそれは嫌でも目に映る光景だった。

最初の何割かは心を病んで使い物にならなくなった。私のように支えのある者なら兎も角、支えの無い者はまず見も知らない男に身体を開く事に耐え切れなくなって自死を選んだり失踪したりした。大半は捕らえられて酷い折檻を受けるのだけれど。

次に身体を病む妓が多かった。元々それ程良い暮らしができる訳でも無い女郎屋でどんな病気を持っているかも分からない男の相手をさせられて、運が悪ければ移される。実際私だって移されてもおかしくなかったと思う。運が良いのか悪いのかは、分からない。

そして最後に矢張りついて回ったのは、孕んで消える妓たちだった。彼女らの行く末を私は知らない。孕んだ事が判明してしまえば最早ここにはいられないのだから。堕胎させられるのか、或いは父親の顔も知らない子どもを育てさせられるのか、いずれにせよ幸福な行く末は想像出来なくて、私は彼女らの事を想像するのを止めた。幸せに暮らしているに違いないなどとは、太陽が西から昇ったって思う事は出来なかった。彼女らの行く末は私の行く末であるやも知れなかった。

そうして、私と同じ頃にこの店に来た妓の半数は何らかの理由で消えていった。中には幸せと呼べる終わり方もあったのかも知れない。客に気に入られて、身請けをもってこの世界の「終わり」を迎えて普通の女に戻った妓も少ないながらいた。

彼女らが己の消えていく理由をどう感じたのかは知らないが、或いは彼女らは幸せであったのかも知れない。死んでいくにせよ、一人の男の物になるにせよ、己の意思とは裏腹な場所で客を取らされる事は無いのだから。

彼女らを見送る時、私はいつも思う。次は私の番かも知れないと。物言わぬ骸になってここを出ていくのか、気に入ってくれた男の所有物として出ていくのか。いずれにせよ救い主との約束を果たすまで、私は生きていなければならない。でももし、救い主との約束を果たしてしまったら。

時々その事を考えて、私は怖くなって考えるのを止める。こんな所にいる以上、私と彼が出会うには彼が私を買うしかない。その可能性を考えたら救い主が途端に汚らしい俗物に見えて仕舞わないか心配だった。そんな心配会う前からしても仕様が無いというのに。店が始まる前の時間はいつも下らない感情に支配されてしまう。

ああ、太陽が西に傾いて行くのが見える。本格的に店が始まる時間だ。

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