なまえは俺を屋敷に呼んで良く按摩の様な真似事をさせたがった。俺が彼女の求めに応じて彼女の部屋を訪れると、なまえは嬉しそうに頬を緩めて服を脱ぐ。肌着一枚になって静かに俺を見詰めるなまえに俺は毎度呆れ混じりの息を吐いた。
「慎みは無えのか」
「……あなたは私の事、何とも思ってないって分かっているもの」
静かで物憂げな声音でなまえがそう呟くのも毎度の事であった。柔らかな生地の襦袢を纏ったなまえは決して俺に触れて来る事は無い。あくまで俺が触れて来るのを待っているのだ。
縋るような瞳で俺を見るなまえの手を取り、いざなって俺は肘掛け椅子に腰掛け、その膝の上に彼女を乗せる。なまえは甘えるように俺の胸の内に身体を預け、くすくすと喉の奥で笑った。
「……今日はね、何もしなくて良いわ」
ぽつりと溢れた声に目線を下げると先ほどまで控え目ながらも笑い声を上げていたなまえは面白くなさそうな顔で俺の手を弄んでいた。手の甲に少し爪を立てたり、俺の手の輪郭をなぞったりするなまえに、占領されていない方の手で彼女を支えるように抱き抱えた。
「何かしとかねえと今の態勢を見られたら余計な噂が立つだろう」
「私との噂は嫌?」
「歳が違い過ぎるだろうが。俺を童女趣味の変態野郎にしてえのか」
「私は童女よりもう少し年上じゃないかしら」
首を傾げながらなまえが俺の手を抱くように胸に抱えたせいで彼女の中途半端な胸の膨らみに挟まれた俺の手はどうにも一寸も動かせない。というか今この状態で手でも動かしてなまえが騒ごうものなら俺は一発で両手が後ろに回るだろう。なまえもその事には気付いているのか抱えていた俺の腕はすぐに解放された。
「そうね、悪い噂は良くないわ。父の駒が最低な男だったなんて、それこそ最低だもの」
肩を竦めて俺の膝から降りたなまえはまるで猫のような瞳で俺を振り返る。その瞳の湛える寂しげな光が俺の背筋を粟立たせるのを素直に感じた。この娘の怖い所はそのような噂が起こったとして、たとえ相手に「その気」が無かったとしても「その気」であったと周囲に思わせる事が出来るくらいの妙な妖気がある所だろう。つまり例えば彼女が気紛れに一声俺に乱暴されたとでも言えば(彼女の世間体は兎も角として)世間は絶対にそれを信じるだろうという確信が俺にはあった。なまえにはそういう、人を統べるような何かが備わっていた。
「どうしようかしら、」
「あ?どうした」
しかし俺の考えも他所になまえは少し困ったように大きな瞳を眇めた。下がった眉が彼女の完成された容姿を僅かに乱して、愛らしさを感じさせた事は感嘆すべき事なのだろうか、或いは最早呆れの境地なのだろうか。
「私一人で着付け出来ないの」
「は?お前今までだって散々俺の前で脱いでたじゃねえか」
「あなたが帰った後、ばあやに手伝って貰ってたの。だからばあやの中じゃあなたはもしかしたらもう最低の変態野郎かも」
「は?ふざけんじゃねえぞ」
不愉快な真実(或いは嘘という可能性も捨てきれないが)に顔を歪めた俺になまえはくすくすと笑う。笑い事じゃないと彼女を睨めばなまえはおふざけが過ぎたと感じたのかすぐに澄ました顔で唇を尖らせた。それはなまえが少し都合が悪くなると良くする普段の僅かな憎たらしさが緩和されて愛らしさが勝る表情で、彼女が明らかに「分かっていてしている」事は明白だった。
「そんな顔しても俺は騙されねえぜ」
「……ばあやは『応援していますよ』って言ってくれたわ」
「応援される事柄が俺とお前の間には何一つ無えんだが」
言い訳をするかのように少し決まり悪そうに言葉を紡ぐなまえに呆れて物も言えず息を吐けば、彼女は珍しく肩を揺らして窺うような表情で俺を見た。怯えたような表情は俺に種の本能としての優越感をもたらし、自然と喉が鳴った。
「あのね、大丈夫よ。ばあやは口が堅いし、それに私に甘いから」
「…………」
「……私はただ、」
俯いて寒さを誤魔化すかのように自身の身体を抱いたなまえは静かにその場に膝を突くと膝を抱えるようにして座る。動揺したような声は十中八九俺の気を引こうとする作られた物なのだろうが、それでもそれを放置しようという気にはなれないのだから俺も相当なのだろう。
今度は俺自身にため息を吐いて肘掛け椅子から立ち上がった俺はなまえの頼りない背に近付いて、彼女が脱ぎ落とした衣を掛けてやる。首を巡らせて俺の表情を見ようとするなまえは矢張りにんまりと唇を歪めていた。
「……泣き真似がお上手な事で」
「悲しいのは本当よ。あなたには嫌われたくないもの」
猫撫で声が俺にしな垂れかかってきて柔らかな重みと甘い香りが途端に強くなる。抱き着かれた勢いに任せて床に腰を落ち着けた俺の首に細い腕を回し、更に身体を寄せたなまえは俺の耳許で「私、優しい百之助が大好き」と吐息混じりに囁いた。
「……優しかろうが何だろうが何だって良いが、この体勢は流石に不味くねえか」
「そうね、でも良いの。……この家の人間は皆私には無関心だから」
寄る辺無い表情で微笑むなまえの肩からずり落ちた彼女の淡い色の衣を再び羽織らせてやり、俺は何となく彼女の身体に腕を回す。蝶よ花よと育てられてもこの娘の空虚は埋まらない、いや、それ程までの空虚とは何だ。なまえの言う「皆」とはただ一人の事を指しているような気がして俺はなまえの中に昔の俺を見た気がした。
なまえは空虚な笑みを浮かべていたが、ゆっくりと伏せていた瞳を持ち上げて弱々しく輝く瞳に俺を映した。不思議な事にそれは弱々しいにもかかわらず俺を酷く惹き付けて離さない。なまえは俺の目を確りと見つめて、形の良い唇を開いた。首に絡む腕に僅かな力が入り、まるで口付けの直前程に顔が近付き合う。
「あのね、私、百之助との噂だったら良いよ」
控え目に喉の奥で笑いながら俺の頬に落とされた唇と共に、なまえは面映ゆそうに言葉を吐く。矢張り本心を見せない彼女に肩を竦めれば、信じられていないと気付いたのかなまえは頬を膨らませてそして再び俺に顔を寄せた。触れるだけのそれには流石に呆気に取られた俺に、まるで悪戯が成功したように楽しそうに笑ったなまえは俺から身を離すと羽織っていた着物を身体に巻き付け始める。
「手伝って頂戴な。私一人じゃ出来ないもの」
「お前、俺が出来るとでも思ってんのか」
「少なくとも私よりは着せるのも、脱がすのも、回数こなしてるんじゃないかしら」
ちくりとした皮肉に乾いた笑い声を上げれば、なまえも目を細めて唇を弓形に持ち上げる。その瞳に映る嫉の色が実に気分の良い。気分が良いついでに俺のとち狂った発言くらいは許されるだろう。
なまえとの噂なら悪くない、などと。
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