美しい人

一晩を、朝までをこれ程長く感じたのは初めてかもしれない。娼妓として、客の相手をしている時に他の男の事を考えるというあってはいけない事をしているという後ろめたさや罪悪感が、反対にままならない私の世界を出し抜いたような気にさせて後ろ暗い喜びを私に与えた。

朝、いつものように客を見送って、それからすぐに今度は大通りを通って湯屋に行った。いつもは何となくだらだらと昼くらいまで他の妓たちと喋っていたりするのだけれど、今日はそんな事もしていられない。それは昼頃、という漠然とした約束で、その時間まではまだ大分間があったけれどやっぱり音様を待たす事はしたくなくて、何より私が早くあそこに行きたくて身体は自然と急がれた。

身を清めて店に帰って、それから鏡台に向かった。いつもは行為中も汗などで剥がれないように、そして出来るだけ艶やかな顔に見せられるようになるべく濃い化粧をするけれど、思い直して僅かに薄化粧をしてそれから私の持っている紅の中で一番落ち着いた色のものを選んでそっと唇に落とした。でもやっぱりそれだって赤過ぎて、仕方なく私は懐紙で落とせるだけ紅を落として出掛けたのだった。店の廊下で擦れ違った妓には「新しい簪を買いに行く」と嘘まで吐いて。

店を出る時に見た時計は十時を少し回った頃だった。約束は昼頃だからまだ大分余裕があるだろう、そう思っていたのに。

「っ、ほ、本当に来てくれたのだな……!」

私が待ち合わせの場所に着いた時には(私だって店を出てから真っ直ぐに寄り道もせずに来たのだから出発してから三十分も経っていないだろう)音様は既にそこに立っていて私の顔を見るなりまた子どものような顔で頬を赤らめて笑った。

「も、申し訳ありません!あの、遅くなってしまって……!」

慌てて私が駆け寄れば音様は嬉しそうに首を振って笑う。その顔が酷く明るくて、嬉しそうで、幸せそうに見えて、それが私のせいだとしたら、そう考えて無理矢理その思考を打ち消した。私の狼狽え振りにも音様は気にしていないと言うように口を開いた。

「違うのだ。私がなまえに会いたくて、もしなまえが私より早くに来てしまって待ち草臥れて帰ってしまったら嫌だから早くに来てしまっただけなのだ。なまえこそ、待ち合わせにはまだ早いだろうに」

「ん……、そうですか?だって助けてくださった人をお待たせする訳にはいかないですもの」

真っ直ぐな音様の言葉が眩しくて、私は少しだけ捻くれた、義務感に溢れた言葉を吐いてしまう。私も音様に会いたくて待ち切れなかったから、そう言えば良かったのに、どうしても吐いた言葉は正反対であった。

「気にする必要は無いのに。私はいつまでも待つ積もりだったのだから」

「でも、」

「まあ、良い。なまえが早く来てくれたおかげで、予定より早くなまえと会えた」

今まで客にどんな事を言われたってほとんど跳ねる事も無かった心臓が簡単に跳ねてしまって、私は私の感情の軽薄さが嫌になった。今まで客として出会ってきた男たちと音様が違う保証なんて在りはしなくて、それなのに私の都合の良い思考は「音様だけは違うんじゃないか」って思おうとしている。出会ってまだほとんど時間も経ってなくて、お互いの事も何も知らないにも関わらず。「音様だけは違っていて欲しい」って私の都合の良い偶像を彼に当て嵌めている。

「……それは音様の本質ですか?」

「……ん?今何か言ったか?済まない、聞こえなかった」

私が口内でほとんど音も無く呟いた筈の言葉は僅かに言葉尻を捕まえられたのか、音様は首を傾げる。私はもう一度、彼に私の疑念を伝えるべきか迷ったけれど、出会ったばかりの女からそんな事を言われたって困るだけであるのは必至だと思い直して首を振った。音様は納得していないように訝しそうな顔をしていたけれど、私が強請るように「音様と一緒に街を歩きたいです」と言えば、顔を真っ赤にして、でも嬉しそうなぎこちなさそうに私の手を引いた。

店の外で男と会った事がばれたらどうなるのだろう。少し怖くて最初の内は顔を俯かせ気味に歩くけれど、私の事を気遣うように時折私の方を振り返る音様が心配そうに声を掛けるものだから結局どうでも良くなってしまって顔は上げたままだった。

私と目が合う度に嬉しそうに微笑んで、時折私の興味を引こうと色々な店を指差してあれはどうだこれはどうだと話し掛けてくる音様の美しい笑みをみていたら、ああ、この人は美しくてとても気高いのだと今更ながら気付かされてしまって、私は私と音様との違いばかりを見せつけられて、惨めなばかりで死にたくなった。

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