身を裂く程の痛み

硬く凍り付いた空気を壊したのは意外にも私からだった。「音様、」と戦慄く唇で呼んだ彼の名前は矢張り震えていて、私はどうしたら良いのか分からなくて、項垂れて唇を噛んだ。音様は何も言わず後ろ手に部屋の襖を締めた。

「……なまえ、」

「…………」

「……そちらに行っても、構わないか」

窺うような音様の言葉、私は俯いたまま静かに頷いた。どうしてこんな事になってしまったのだろうと私の身の上や何もかもを恨んだ。膝を突き合わせている私たちであったがそれ以上言葉が交わされる訳でも無く、ただ、私はいつか来る終わりをこの時ばかり願った事は無かった。

「その、なまえ……」

「っ、黙っていて、ごめんなさい……」

膝に乗せた手に力が入って震える。音様に詰られる覚悟はまだ出来ていなかったけれど、詰られても仕方ない事は覚悟していた。泣きたくて、でも泣くのは狡くて許されない事だと分かっていたから、私はただひたすらに何も考えないようにしていた。

「いつから、」

「っ……」

「いつから、このような事を?」

それは音様の声なのに随分と澱んで聞こえた。清廉なよく通る声が、まるで沼のような重くどろどろとした感情の乗せられた声に変わっていた。それが私のせいなのだと思えば、私のしていた事は矢張り軽蔑されるべき事なのだと絶望的な気分になった。

「……もう、ずっと。家族を喪ってから」

「私と逢っていた時も?」

「……ええ、」

声は震えてしまったけれど、こうなったら徹底的に嫌な女を演じた方が楽だと思った。いっそ音様に手酷く拒絶されて軽蔑された方が諦めも付くのかと思ったのだ。

「っ、軽蔑してください……!私はそういう女なのですから!あなたのような清廉な人には似付かわしくない……っ」

音様が膝立ちになった、と思った時には更に距離を詰められて私は彼の腕の中にいた。ぎゅう、と息の詰まるくらいに強く強く抱き締められて、私は泣いてはいけないのに目頭が熱くなって、切れそうなくらいに唇を噛み締める。

「何も、……何も言わないでくれ」

「…………、」

「お前を、困らせたい訳では無いのだ」

「音様……」

耳許で束の間いつもの音様の声が響く。静かな部屋にどこかの部屋から響く猥雑な嬌声が聞こえて居た堪れない。音様は静かに私から身体を離すとそっと私の顔を覗き込んだ。傷付いた顔をしている、と思った。その顔を、私がさせてしまったのだと思ったら、運命は何と残酷なのだろうと私の涙腺は決壊した。

「なまえ、泣くな……」

音様は困ったように私の頬を伝う涙に唇を押し当てる。音様の香りが強くなって、くら、と眩暈がした。彼は、いつもと少し違って見えた。

「おとさま……っ」

「っ!」

勢い余ったように私は押し倒されて、音様に覆い被さられていた。受け身が取れず背中を強く打ち付けたせいで肺から逃げて行った空気を吸い戻すのに少し時間がかかって、私が状況を理解したのは一、二拍遅れての事だった。

「おとさま……、」

「泣くな、なまえ。無防備な顔を見せるな。お前は狡い。いっそ、私にお前の事を嫌いにならせてくれ……!」

音様は、泣いていた。ぽろぽろと零れ落ちる涙の粒が私の頬に落ち、私の涙と混ざる。どうして。名前を呼ぼうとした私の喉を音様の大きな手が覆う。嗚呼、と思った時にはその手に力が加わっていた。

「っ、ぁ……っ!」

「いっそ、お前の事をこの上なく憎む事が出来たなら、良かった。お前をこの手で、殺してしまいたい!夜毎誰とも知らぬ男に、お前が抱かれていると知っていたなら……!」

「お、と……さま……、」

「なまえ、頼む。私と共に、」

その先は言われなくても分かった。音様の手の力はどんどんと強くなっていき、私の息の道も少しずつ狭く細くなっていった。それは幸いなのかも知れなかった。愛した人の手で黄泉路を逝くのは。

「ぁ、へ……い、のじょ、さ、まっ」

それは意図して出た名前ではなかった。死を前にして私が零した名前は音様の名前では無くて、あの、小さな救世主の名前だと、私が信じている音そのものだった。しかし何故か、音様の力のこもった手が震えたのを感じた。涙の滲む目で音様の顔を見たら、彼は驚愕の色濃い表情で私を見ていた。

する、と私の喉から離れた手に、締められていた気道が緩み、身体は正直に息を吸おうと酷く咳き込む。身体を起こして、荒く息を吐く私に、音様は震えたような声で問うた。

「何故、その名を……、私の、兄の名を……」

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