その日はいつもより早く目が覚めた。それが偶然だったのか、運命だったのか今となっては分からない。でも、早く目が覚めた私は客を見送った後、少し早くに湯屋へと向かった。いつも通り身を清めた後、少し余計な心が湧いて散歩をしてみようと湯屋からの帰り道から逸れて横道へと入ったのだ。
実に気分の良い朝だった。気温はそれ程高くも低くもなく、空気は乾燥していて頬を撫でる風を捕まえたくなるような。少し楽しくなって鼻歌を歌いながら歩く。湯上りの身体が纏う石鹸の香りが風に靡いてどこかへ攫われていった。
そんな時だった。背後から慌ただしい足音が聞こえたのは。
振り返ろうとした時にはもう、羽交い絞めにされて引き摺られていた。叫ぼうとしたけれど口を塞がれて声も出せない。頭の中では警鐘が鳴り響き嫌な汗が背中を流れた。心臓が耳許で跳ねていてどうしようと思うのに効果的な策は何も浮かばなかった。
誘拐
最近街で一人でうろついている女や子どもを狙う無法者がいるという噂を聞いたのはつい先日の事だ。その話を聞いた当初は同じ店の妓同士気を付け合っていたけれど、結局何も起きなくて最近は気を抜いていた。その代償がこれだ。
(どうしよう、どうしたら、だれか!)
怖くて抵抗しようとするのに身体を押さえ付けられて身動きもままならない。自然と滲む涙にもう駄目なのかと目の前が暗くなる。まだ、私はあの人に名前すら聞いてもいないというのに。
「何をしている!」
「……っ!?」
不意に明るい方からよく通る鋭い声が聞こえて、暗かった視界が広くなった。無法者たちは闖入者の姿を見るなり私をその場に放置して蜘蛛の子を散らすように去っていった。呆気に取られていた私だったけれど、声の主の姿を見て納得した。彼は軍人であったようだ。無法者たちはどうやら彼の軍服と帯剣を見て早々に退散したようであった。
「……おい、大丈夫か?」
我が身に起こった事が未だに信じられなくて(誘拐されそうになった事も、解放された事も)阿呆のようにぽかんと目を丸くして座り込んでいる私の前に、青年は気遣わしげに膝を突いた。凛々しい顔は女たちが放って置かないだろうという妙な確信を私に植え付ける。
「どこか、怪我でも……」
何も言わない私にそっと私の顔を覗き込んだ彼にはっと意識を取り戻す。漸く意識の焦点が目の前の青年に向いて、彼の言葉に対する返答を頭が思考し始める。
「も、申し訳ありません……。驚いてしまって」
「ん……、無理もない。大事無いか?」
私の言葉に僅かに唇を緩めた彼は私の顔を改めるように見つめた。意志の強そうな瞳は彼の凛々しさを増長させ、ただどことなく漂う彼の気品が尖り過ぎた青年の雰囲気を僅かに柔和なものに見せた。
「ええ、本当に。早くに来てくださったから、驚いただけです」
完璧な人当たりを見せる青年と私の落差が少し嫌で、私も努めて感じ良く振る舞おうと笑顔めいたものを作ってみせる。本当はまだ心臓は嫌な音を立てていたし、折角清めた身体は砂まみれの汗まみれだったけれど。だが青年は私の顔を見ると、少し眉を寄せた。
「無理はするな。震えているじゃないか」
「……これは、」
指摘されるまで気付かなかった。私の手は小刻みに震えていて、それを意識した瞬間にさっきまでは何ともなかったここがとても怖い所のように思えた。
「兎に角、ここを離れるぞ。ここにいたって良い事など一つも無い」
言うが早いか私の手を取る青年の手は大きくて硬くて、私の救い主もそう言えばこのくらいの年の頃になっているのではないであろうかと何となくそう思ったけれど、その考えは歩く内に霧散した。
明るい大通りにはまだ、人も疎らだった。朝早いのだからそれもそうだ。そんな中で私と青年の歩く足音だけが世界に存在しているような気がして不思議な気持ちだった。青年は歩きながら落ち着ける場所でも探しているのか、真っすぐに歩いて行く。そうして公園(多分運動場だ。公園と呼ぶには華やか過ぎない)のようなところで漸く私の方を振り返った。
「す、すまない……。長く歩かせ過ぎた……」
開口一番の言葉と青菜が萎れるようなそのしょぼくれた様子に瞬きせざるを得ない。さっきまでの凛々しさはどこに行ったのだろう。何となく親しみと可笑しさが湧いてきて握られていない方の手で口許を隠してくすくすと声を出して笑ってしまう。
「……!」
笑われた事に驚いたように呆気に取られた顔をする青年はかあっとその頬を赤くした。よく日焼けした頬にも血が上って赤くなるのがよく分かった。笑った事が気に障ったのだろうかと少し恐る恐る居住まいを正せば、青年は困ったように大きな手で赤い顔を隠した。赤い頬は隠れたけれど、耳まで真っ赤だったから隠せているようで隠せてはいなかった。
「……何が、可笑しいのだ」
「いいえ、可笑しいなんて。あの馬鹿にしたのではないんです。お気に障ったなら、」
「ち、違う……!だ、大体、女が不用意に笑うな!変な気を起こす者がいたらどうする……」
言いながら自分でも苦しいと思っているのか、青年の言葉は尻すぼみに小さくなっていく。言動の端々から垣間見える素直な、ある意味擦れていない青年の本質は私に良い印象を与える事を惜しまなかった。
「それで、大丈夫なのか?怪我などは、」
そればかり気懸かりであったと言うように私の身体を出来る限り触らずに見分しようとする青年にまたくすくす笑いが止まらない。
「大丈夫、大丈夫です。そんなに心配なさらないで。びっくりしましたけど、あなた様のお陰で何ともありませんもの」
久し振りに、心がぎゅうと掴まれるような気がした。ぎゅうと掴まれた心から自然と感情が湧き起こって笑みが形作られるようなそんな心持ちになるのは本当に久し振りだった。くすくすと笑う私に青年はまた困ったように眉を寄せて、そして照れたように視線を彷徨わせた。
「そうか……。うん、お前が無事で良かった」
「……あ、ありがとうございます、」
真っ直ぐな言葉が私の胸の内を通り過ぎていく。ああ、彼はきっと優しくてあたたかくて沢山の素敵なものに囲まれて育ったに違いない。我が身との落差に少し悲しくなる。青年は私の内心には気付かなかったのか少しばかり迷ったように口を開閉させてから私を見た。
「その、私は、あ、あの、だな……」
言い出すべきか迷っている青年の顔を見る。顔を真っ赤にさせて初対面の凛とした雰囲気が嘘のように困った表情で、彼はもどかしそうに俯いてそして再び顔を上げる。
「私は、音之進、というんだ。……それで、その、お前の名前も、」
「なまえ、です」
尻切れに消えていく彼の言葉に納得して、私も私の名を明かせば彼は子どものように表情を明るくして笑った。無邪気な程のその笑顔は彼の風体には到底似合うものでないような気がするのに、何故だかこれ以上ない程に可愛らしく思えて私もつい、微笑み返す。
「なまえ、なまえ、良い名前だな。なまえか」
「もう、あんまり呼ばないでくださいな。恥ずかしいもの。あなたも音之進様ってずっと呼ばれたら恥ずかしくありません?」
「ん……、音之進様などと堅苦しい呼び方はいい。『音』で良い」
私の名前を口の中で転がすように呟く彼に唇を尖らせて見せれば、彼は、音様は少し反抗するかのように私に言い返す。彼に倣うように私が与えられた呼称を何度か舌先で弄べば、音様は嬉しそうに笑った。
「うん、やっぱり音之進様より音様の方がずっと良い」
「そうですか?それよりも助けてくださったお礼をしたいのです。でも今は持ち合わせも無くて、」
「そんな見返りを求める積もりは無い!」
音様のが移ったように萎れる私に彼は心外だとでも言うように首を振る。なのにその言葉を言い切った瞬間にしまったと言うような顔をして気まずそうな顔をする。私が首を傾げれば音様は実に言い難そうに口を開いた。
「あの、だな。見返りを求める積もりは無いと言った舌の根も乾かぬ内にこんな事を言うのは何なのだが」
「ええ、私に出来る事なら何でも仰ってください」
本当にその心算だった。もし彼が私を抱きたいと言うのであればそれでも構わなかった。それなのに彼は恥ずかしそうにまた頬を赤らめて言うのだ。
「なまえと、また会いたいのだ。もし助けた礼がしたいと言うのなら、私とまた会ってくれないか」
ぱちぱちと瞬きした私に音様は項垂れて、決まり悪そうに後頭部に手をやる。噛み締められた下唇が意地らしくて苦笑が零れた。
「ええ、私でよければ喜んで」
太陽のような零れる笑顔は私には到底持ちえないものだったのかも知れないし、他の人のものであったなら直視したら目が潰れてしまうような気がして怖かったけれど、音様の笑顔は不思議とそんな事は無くて、もっと優しくてあたたかな気分になるような、そんな気が、何故かした。
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