アシリパの集落を訪れた杉元を迎えたのは一人の少女だった。浅葱鼠の髪を無造作に流した少女はアシリパより僅かに年上に見える。少女は歳相応の微笑みで友人を迎えたが、友人の背後にいる男を見て、見定めるように目を細めた。長い睫毛に縁取られた目蓋の陰に見え隠れするその瞳が美しい琥珀色をしていた事に杉元は気付いた。その色をどこかで見たような気がして記憶を手繰ろうとするがそれよりも早く琥珀の少女が口を開く。
「アシリパ、お帰りなさい。心配していたよ」
「ああ、ただいま、ナマエ。別にいつもの山歩きだ。そんなに心配しなくても大丈夫なのに。…………ナマエは心配性すぎるんだ」
「たった一人の親友を心配しているんだよ。見慣れた山だって、何処に危険が潜んでいるのか分からない訳だし」
少しばかりの会話の後、ナマエと呼ばれた少女の琥珀色の瞳がゆっくりと動いて杉元を捉え、彼を射抜く。その瞳の力強さに杉元は僅かに動揺めいたものを感じた。彼女の方にその気が無いのだとしても見定められているように感じられたのだ。
「お客さんだね。シサムだ」
だが杉元の動揺とは裏腹に硬い色を帯びた瞳はすぐに三日月形に歪み、少女の雰囲気を年相応に見せる。だが杉元は気付いた。少女の口端が無理やり持ち上げられていることに。強張ったような顔で微笑みを作る少女はアシリパの方に視線をやって杉元の紹介を彼女に求める。アシリパもナマエの視線に気付いたのか頷いて杉元を振り返った。
「杉元だ。杉元、彼女はナマエ。コタンでは薬師をしている」
杉元が会釈すればナマエもそれに応じて今度はごく自然に微笑み返す。それから彼女は思い出したようにアシリパの方に向き直った。
「この間の薬をまた持っていくね」
「ああ、ありがとう!フチがよく効くと喜んでいたよ。じゃあ、また後で」
手を振り交わして離れていくナマエの背を見送りながら杉元は目を細める。歓迎されていないのだろうか、と思ったのだ。和人の中にアイヌを差別する者がいるように、アイヌの中にも和人をよく思っていない者がいる事を杉元は勿論知っていた。
「……ナマエは、」
少し沈んだアシリパの声に意識を引き戻された杉元はアシリパの方を向く。彼女は物憂げな表情でナマエの背を目で追っていた。
「ナマエの兄は戦争に行って、帰って来なかった。ナマエはコタンに人が訪ねて来る度にああやって様子を見に来るんだ。兄が帰って来たんじゃないかって」
アシリパの言葉に杉元は目を見開く。では先ほどの彼女の強張った表情は。遣る瀬無い思いに何も言えない杉元にアシリパは眉を寄せて微笑む。
「……杉元がそんな顔をするな。ナマエは強い。私たちもいる。……喪った痛みは消えないが、痛みを感じる時に寄り添う事は出来る」
もう一度だけ、ナマエの背を一瞥してアシリパは今度こそ綺麗に微笑んだ。
「行こう。フチに紹介する」
頷く杉元だったがナマエの背中がいつまでもちらついて離れなかった。彼女の微笑みの裏に隠された哀しみが身につまされた。
***
杉元の予想に反してアイヌの人々は実にあたたかく杉元を彼らのコタンに迎え入れてくれた。まるで古くからの知り合いのように接してくれる彼らに杉元はむず痒さを感じながらも悪い気はしない。しかし彼の心に引っ掛かるあの琥珀の瞳の少女とは全くと言って良い程関わり合いにならなかった。
アシリパは否定したけれど杉元は分かっていた。それが偶然ではなく、意図的なものであるという事を。杉元はあの少女に、ナマエに避けられていたのだ。
ナマエは実に巧妙に、周囲の空気を壊す事なく杉元を避けた。たとえ杉元が意思を持ってナマエと関わろうと思ったとしても、彼がその素振りをちらとでも見せればたちまち、ナマエは柔らかく微笑んで無言で杉元を拒絶した。彼女が杉元の事を嫌悪している訳では無い事は杉元にだって分かっていた。年端も行かない少女が己の感情の均衡を保つためには、刺激の無い平坦な生活が必要なのだと。
だからこそ杉元は何度か彼女と関わりを持とうとして失敗してからは、進んでナマエから距離を置いた。出会い方が異なれば或いは、と杉元は思っていたし、少女もそう思っているのではないかと彼は感じていた。それでも杉元は喪った辛さを知っているからこそ、彼女のそれを蒸し返すような真似はしたくなかった。しかしその無言の内に交わされる駆け引きは実にあっけなく終わりを迎えたのであった。
それは杉元がコタンの子どもたちと遊んでやるアシリパを遠目に見ていた時であった。腕に抱いた子熊が何かに反応するように鼻を鳴らし、そして近寄ってくる気配に気付いて振り返った杉元は僅かに目を丸くさせる。そこにいたのがナマエであったからだ。あれだけ避けられていた筈のナマエが自ら接近してきた事を杉元は意外に感じ、一瞬虚を突かれた。
「ナマエさん……、」
「杉元、だっけ?」
微笑むナマエにはっと我に返った杉元は頷いて一人分の席を空ける。「ありがとう」と微笑むナマエは杉元の胸元でころころと丸まっている子熊の頭を撫でた。
「少し大きくなった?」
「あ、やっぱり、そう思うよな」
杉元の隣に腰掛けたナマエからふわりと香った柔らかな草の香りに杉元は改めて彼女の生業を思い出した。それは強い香りではなかったが確りと主張されて、それでも不快になるものではなかった。ナマエは一頻り子熊をあやすときゅうと顔を緩めて笑う。春の花が綻ぶようなその笑顔に杉元もつられて顔を緩ませる。お互いに殆ど会話らしい会話もしたことが無かったのにもかかわらず、杉元とナマエは以前からの知り合いのように打ち解けた空気を作った。二人の間に漂う和やかな空気に肩の力を抜いたナマエはくすくすと口許に手を当てて思い出すように笑い、言葉を紡ぐ。
「耳長お化け、全然怖くなかったよ」
「もうその話は止めてくれ……」
項垂れる杉元に霞草のように再度笑ったナマエはそれから少しだけ、視線を落とした。様子の変わったナマエに杉元は彼女を見つめる。杉元の視線に気付いたのか彼女は再び顔を歪めて笑った。それは到底上手な笑顔とは言えなかった。
「どうかしたか?」
「ごめんなさい、兄を思い出したの。兄も耳長お化けが下手だったから」
「それって、なんだ……、この間の戦争に行ったっていう、」
ふと思い出したようにそれを口にして、杉元は口を滑らせたと思ったがもう遅かった。ナマエの顔を見て、彼女の瞳の色を見て余計に。そして同時にナマエが今更自分に近付いて来た理由も彼は漠然と理解した。
「あ……、すまん、」
「え、あ、大丈夫。こっちこそごめんなさい。気を遣わせてしまって。……それに、随分失礼な事をしてしまったから謝りたくて」
言葉を失う杉元にナマエははっとしたように目を見開く。慌てたように首を振るナマエに杉元は眉を下げた。大丈夫な訳がない。大切な者を喪う辛さは彼自身痛い程に分かっていた。
「いや、すまん。無神経だった」
「謝らないで。悲しくない訳じゃないけど、私は兄を思い出せて嬉しかった。……あなたがこのコタンに来て、私は久し振りに兄の事を思い出した」
「久し振りに?」
「兄は、私の唯一の家族。それなのに、私は兄の事を考えると辛くなってしまうから、考えるのを止めたの」
微笑むナマエはそれから少しだけ笑顔を消して宙を見つめる。そして細く長く息を吐いた。
「薄情だと思う?」
色を失った彼女の琥珀の瞳は笑顔の形に歪んでいたけれど、そこに笑顔は無かった。感情の抜け落ちた表情はただひたすらに微笑んで、冬の鈍い陽光にその琥珀を煌めかせた。しかし杉元は目を細めて拳を握り締める。煌めく彼女の瞳はゆっくりと揺らめく雫を溜めていた。己の感情を正常に表出する事も出来ない少女に堪らず杉元は手元の子熊をナマエに押し付けた。
いきなり押し付けられた温もりに目を白黒させるナマエの瞳から、重力に負けた雫が一筋零れ落ちて頬を伝う。その筋道をさり気なく拭ったナマエを見つめた杉元の唇から言葉が零れる。それは彼自身意図しないものであった。
「俺は、そうは思わない。…………俺も、何も思い出せなかったから。思い出そうとも、しなかったから」
杉元の言葉に目を見開くナマエは彼の言葉の意味を理解して、そして唇を噛んだ。長い睫毛が影を落とすようにナマエの顔を縁取り、伏せた目を飾る。
「あなたにも、いたんだね」
俯いた杉元は軍帽に手をやってそれからナマエの手の内で喉を鳴らす子熊を撫でる。ぎゅう、と子熊を抱いたナマエに杉元は何も言わずアシリパの方を見た。彼らはこちらには気付かず、ウコ・カリプ・チュイで遊んでいる。笑い声がこちらまで聞こえてきて、それに気付いたナマエも顔を上げた。
「…………聞いても良い?今は、思い出せる?」
明るい笑い声に目を細めて唇を弓形に持ち上げたナマエに杉元も同じ方を見て笑った。楽しそうな笑い声は彼らの心を幾分も軽くさせる。その声に背中を押されるように、杉元は穏やかに微笑んだ。
「あいつらといた時間は幸せだった、そう思うよ。俺の宝物だって、今なら言える。勿論、あの頃だってそうだったけどな」
すっきりとしたような声音と表情で微笑む杉元に、ナマエも微笑む。先ほどの表情よりも幾分感情を取り戻したような微笑みに杉元は口を開いた。
「お兄さんはなんで耳長お化けが下手だったんだ?」
「うーん……、カッコつけだったから、かなあ」
呆れたように眉を寄せて笑うナマエに杉元もそっと息を吐いた。彼女が笑ってくれて、安堵した。
***
アシリパたちに迷惑はかけられない。刺青人皮は己だけで探す、そう決意した杉元は夜半にコタンを出ようとアシリパのチセを出た。
僅かの間だが自身を受け入れてくれた集落を一瞥して歩き出した時だった。
「行ってしまうの?」
気配も感じさせないその声に一瞬息をするのを忘れた杉元が振り返ればそこにはナマエがいた。呼吸すらも感じさせずそこに佇んでいるナマエに杉元は警戒しつつも声をかける。まるで彼女が待ち伏せているように杉元には感じられた。刺青人皮の話が現実味を帯びてきた今、杉元には誰が敵で味方なのか絶対的な確信が持てなくなっていた。
「起きてたのか?」
「ううん、起きたの。あなたが出ていく音が聞こえたから」
アシリパからナマエの目と耳の良さを聞いていた杉元は改めて彼女の人間離れした五感に舌を巻いた。俄かには信じられなかったがやはり彼女の耳は常人には聞こえぬ音が聞こえるのかもしれないと。
「行ってしまうの?」
再び問われた問いは問いの癖に妙に確信を持って杉元を襲う。差し込む月の光にナマエの琥珀色の瞳がきらきらと光る。意思の強い瞳は気高く、いつかアシリパを助けた野生の狼の瞳を杉元に思い起こさせる。
「アシリパさんを巻き込む訳にはいかない。俺の探しているものに関われば命の危険があるんだ」
「そうなんだ。……行ってしまうんだ」
「止めるのか?」
引き止められたところで関係など無かったが杉元は見透かすようにナマエを見つめる。ナマエはずっと薄く微笑んでいた。本心を見せない笑みだと思った。
「止めても、貴方は行ってしまうと顔に書いてある。でも、アシリパはそれを望まないと思う。あの子はあなたを信じたからここに連れて来たし、一緒に山に入るんだと思うから」
ゆっくりと弧を描く唇に杉元は目を瞬かせた。彼女が何のために己に声をかけたのかが杉元には分からなかった。その怪訝がナマエにも伝わったのだろうか。彼女は一度目を伏せて、また杉元を見た。
「……お願いがあるの。出会って僅かのただの子供の頼み。聞かなくてもいいけど、聞いてくれると嬉しい」
ナマエの真剣な瞳に杉元は頷いた。聞ける頼みかどうかは置いても聞いておくべきだと何故だか感じた。だがナマエの言葉は意外だった。
「……私も、連れて行って欲しい」
「それは、聞けない」
即座に首を振る杉元に尚もナマエは食い下がる。その瞳には懇願の色すら浮かんでいる。
「じゃあ、近くの街まででも良い。ここから、出て行く事が出来るなら」
「出て行く?」
「兄と、約束した。いつか二人で、『こんなコタンからは出て行くんだ』って」
ナマエの真剣な目は力強く光る。月光を反射したその瞳は強い意思を持っていた。
「……理由を、訊いても良いか?」
「……凄く長くなるけど、端的に言えば私と兄は故郷を捨てようとしていた。たとえ兄がもう戻らないのだとしても、兄との約束を破る訳にはいかないから」
押し殺した声で発せられたナマエの声に杉元は目を細める。アシリパの姿が過った。何も言わない杉元にナマエは逡巡を見せながら言葉を紡ぐ。
「分かってる。自分でも、ムシの良い話だと思う。でも、故郷を棄てようとした私たちの気持ちを、あなたが少しでも憐れんでくれるなら、私を連れて行って欲しいの」
唇を噛むナマエと杉元の間を風が走り抜ける。伏せていた目を上げたナマエは強い光を帯びた目で杉元を射抜く。
「私にはもう、ここに居場所は無いから」
「……ナマエさん、」
「近くの街まででいいの。お願い、足手纏いにはならない。もしそうなったら置いて行ってくれていい!アシリパ程ではないけど、私も山歩きは出来る。これでも薬師だから怪我も診ることが出来るから……!」
雫の膜が揺らめくナマエの瞳に杉元は一度目を落とした。杉元にとっては聞く謂れなど全く無い頼みだった。ナマエは足手纏いにしかならず、これから集める刺青人皮について有益な情報も持ってすらいない。それなのに彼は既に決めていた。
「……集落の人に何も言わなくていいのか?」
「……!大丈夫!私はもう家族もいないから待つ人もいない。寧ろ……、厄介払いが出来て清々するんじゃないかな」
口篭もるナマエに杉元は苦い気持ちになった。待つ者がいない、疎んじられていると何の衒いも無く言ってのける彼女に僅かばかり己を重ねたのだ。しかしながらその親和をすぐさま打ち消す。
「アシリパさんは?アンタの親友なんだろう?」
杉元の言葉にナマエは曖昧な表情をする。杉元を納得させる言葉を探しているというよりもその表情は自身を納得させようとしているように見えた。
「そう、だね。アシリパのことはとても大事。……でも、大事だから遠ざけることもあるでしょう?あなたみたいに」
琥珀の瞳が弓形に細められてナマエは美しく笑った。杉元には何も言わせないつもりらしい。上等だ、と杉元も口端を持ち上げる。その顔に杉元の考えを察知したのかナマエは年相応に微笑んだ。
「本当にありがとう。ずっと最後の一歩が、踏み出せずにいたんだ」
「……本当に、なんでまた、俺みたいなのに頼むんだよ?」
「どうして、だろう。あなたが兄さんを思い出させてくれたから、かな」
郷愁に目を細めるナマエの頭を杉元はそっと撫でる。アシリパとも違う、梅子とも違う、でも守ってやりたくなる少女だと思った。
「……行こうぜ、ナマエさん。早くしないと夜が明けちまう」
「うん!行こう、杉元!」
微笑み合って、二人はコタンを出る。後は山に続く細い道に大きな足跡と少し小さな足跡が並んで続くだけだった。
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