神の恩寵

囚われの杉元を助け出し、漸くひと心地。朝早くに情報を探しに行くと再び街へ向かう白石の提案で、ナマエも彼に同行して再び街へ来ていた。曰く彼女の耳があれば風の噂でも聞こえるからと白石は言うのだ。全く嘘っぽいし、顔が緩んでいるところを見るとただ見目の良いナマエと一緒にいたいだけにも見える。

しかし特に断る理由も無かったし、杉元とアシパの間には少し二人の時間が必要だろうと考えたナマエは拒否する事もなく即座に頷いた。しかし成り行きを見ていたアシパと杉元はその提案に大いに反対する。

「ナマエさん、街は危険だ!俺の事があって警戒も厳重になっているし、それに第七師団はナマエさんの事も把握済みだ!」

「そうだぞ、ナマエ!情報収集はこの脱糞王に任せておけば良い」

「だぁーかぁーらぁー!俺は脱獄王!ナマエちゃんがいれば耳寄りな情報が入るかもしれねーだろ!男より女の方が聞きだせる事だってあるしぃ?」

三者三様にナマエに詰め寄る一行もナマエは意に介さない。むしろそこまで反対されて少し不満げでもある。

「大丈夫だよ、白石の言う通り私にはカムイの目と耳がある。それに少しでも友だちの役には立ちたいよ。第一、白石にはお目付役が必要でしょう?」

「ナマエ……」

「ナマエさん、」

確かに……と頷く杉元とアシパに憤慨する白石だったが結局彼の思惑通りになり、ナマエは白石に同行して街へと赴く事となった。杉元とアシパから決して白石から離れないようにと言い含められて。これが今朝までの経緯。

そして……。

「…………、あれ?」

見事なまでにナマエは白石からはぐれた。いや、或いは白石の方がナマエからはぐれたのかもしれないがとにかくナマエはいつの間にやら白石の背中を見失い、小樽の街中で右往左往していた。

辺りのどこを見回しても白石の背中は見えない。先ほどまでそこにいたのに……、とナマエがきょろきょろと周囲を見回していた時だった。

「嬢ちゃん誰か探してるのかい」

不意に背中から声をかけられ驚いて振り返るとそこにはそこはかとなく嫌な感じが漂う二人組の男がいた。

「……一緒にいた人を。ついさっきまで一緒にいたのにはぐれてしまって」

白石の特徴を伝えてみれば、片方の男が思い出したように目を見開く。

「ああ!そういえばさっきそんな奴を見かけたぜ。なあ?」

「ああ、あっちの方にいたなあ。案内してやるよ」

「本当に?ありがとうございます」

男が指差す方向は細い路地裏だったが、いかにも白石が情報を集めそうな場所だと思ったナマエは疑わずに男について行く。男たちがほくそ笑んで顔を見合わせているとも知らず。

「……どこにいるの?」

少しずつ暗くなっていく路地裏だったが、ナマエの目にはそれ程難儀な事はない。ただ、行けども行けども白石の影も形もない事がナマエの不安を煽る。

「お嬢ちゃん、知らない奴について行っちゃ駄目だって教わらなかったのか?」

「え?……っ!何!?」

振り返った時には既に羽交い締めにされていてナマエは身動きも碌に出来なくなっていた。破落戸の腕の中で必死に身を捩る。

「っ、放して!」

「はは、久し振りの上玉を放せと言われてはいそうですかと放す馬鹿が何処にいる?アイヌのガキでも好き者は高く買うんだからなあ!」

両腕を拘束されて身動きが取れないナマエの顔に無骨な破落戸の手がかかる。怖くて気持ち悪くて固く目を瞑ったナマエの眦から小さな雫が零れ落ちた。

「……何を、しているのかね?」

不意に聞こえた押し殺したような声にナマエは弾かれたように目を開ける。破落戸の向こう側に一人の男が立っていたのだ。

「何をしているのか、と聞いているのだが」

全く気配を感じさせなかった男の登場に静まり返った破落戸二人に業を煮やしたのか再び男が口を開く。落ち着いた低い声はナマエを酷く安心させて思わず涙が滲んだ。見も知らぬ人間にこれ程までの安堵を感じるとは思わず、ナマエは理由も根拠も無いのに助かった、と思ってしまった。

「なんだ、テメエは!邪魔するんじゃあねえ!」

破落戸の一人が短刀をちらつかせながら男に近寄るのを立っている彼は無感動に見つめていた。危ない、このままでは、とナマエが男に警告をしようとした時だった。

目にも留まらぬ速さで男が破落戸の短刀を叩き落とす。それから簡単な動作で足払いをかけてしまうと転がった破落戸の顔面を踏み潰す。めりめりという嫌な音が聞きたくなくても聞こえてしまってナマエは顔を顰めつつも男の身のこなしに圧倒されていた。

全く無駄の無い動きは格闘術に疎いナマエにも男が相当の手練れだと分からせるには十分だった。あっという間に一人目の破落戸を無効化した男は気の無い表情でナマエを拘束する破落戸に視線をやる。

「もう一度聞かねばならないか?何を、している?」

「ひっ!」

慌ててナマエを解放して逃げて行く破落戸にナマエはぽかんとして、それから解放感に不意に身体が震えるのを感じた。ふるふると膝が震え、立っていられないくらいだった。

「……大丈夫かね?」

気遣わしげな声にはっ、と男の方を見る。そしてまた驚いた。男の独特な風貌に。怪我でもしているのか一度見たら忘れないようなその風貌はもし男が「そう」ではなかったとしたら別の意味で沢山の女性が忘れないだろうとナマエに思わせる。尤も、男が「そう」であっても彼には沢山追っかけがいそうだ、とナマエは驚きを何とか呑み込んだ。それ程までに、男には人を惹きつける何かがあった。

「あ、ありがとうございます。すごく怖かったから、本当に助かりました……。ぁ、」

遂に膝が限界を迎えて立っていられなくなり、しゃがみ込むナマエを男が支える。密着した身体から香る男の甘い香りにナマエは眩暈がしそうだった。異性にはあまり興味の無いナマエでも、男の魅力には抗えない物があった。

「ご、ごめんなさい……!何だかよく分からないけど上手く立てなくて……」

「恐ろしい思いをしたのだから無理もない。さあ、ここにいるのは良くない。支えるから少しばかり移動しよう」

男に肩を抱かれながら誘導される。兄にだってされた事がないくらいに男とナマエの距離は近かったけれど、不思議とナマエにとってそれは不快ではなく、むしろ安堵さえ覚えるものだった。

「何故こんなところにいたのかね?」

「知り合いとはぐれてしまって探してました。一緒に街まで来たのにいつの間にかはぐれてしまって」

はあ、と項垂れるナマエの様子に男は目を細めたが彼女はそれには気付かなかった。男はナマエの顔を窺うように見る。

「ほう、それはお困りのようだ。私もお知り合いを捜すのをお手伝いしよう」

「え?い、いや、そこまでしてもらうのは申し訳ないです。あっちはこの街にも慣れているようだから私が大通りにいれば何とか……」

「ああ!それはいけない!この街の治安の悪さを知らないのかね?君のような可愛らしいお嬢さんはすぐに誘拐されてしまうだろう。ここは私に任せたまえ」

「え!えっと、ええー?じゃ、じゃあお願いします……」

芝居がかった大仰な仕草で男はナマエに道を指し示す。男の常人離れした身振り手振りにナマエは圧倒されてしまって頷く他出来ない。

「さあ、こちらだ。……ところで、見たところ君はアイヌの生まれのようだ。街にはよく来るのかね?」

「え?……えっと、たまに。でも、大通りしか来た事はなくて、こんな所に来たのは初めてです」

ナマエが街に降りるのは馴染みの薬問屋を訪れるためだった。数年前、薬師の道を歩むと決めたナマエが和人の薬について学ぼうと街に降りた時に、そこの店主と出会ったのだ。歳若のアイヌであるナマエにも店主は親切に様々な事を教えてくれた。そのような経緯もあって、ナマエはふた月に一度くらいの頻度で街を訪れていた。

「ふむ……。では尚更気を付けねば。その髪と瞳の色は非常に珍しく人心を惑わせる。特に瞳。陽光に照らされた君の瞳はとても気高く美しい。……まるで宝石のように」

「あ、ありがとうございます……。でも、そんなに褒められた事はないから恥ずかしいです」

かあっと自然に赤くなる頬を隠しながら目を伏せるナマエに男は満足そうに口端を持ち上げる。

「全て本当の事なのだがね。……さて、大通りはあちらだ。案内しよう。道が泥濘んでいて危ない。お手をどうぞ」

「ありがとう……」

差し出された手に恐る恐る己の手を重ねれば男の繊細な指が優しくナマエの手を包む。少しだけ体温の低いその手は何故だかナマエに喪った彼女の兄を思い起こさせた。男の差添は酷く手慣れていて、歩く歩幅もその速度もナマエの物に確りと合わせられている。あまりに手慣れているその行為に堪らずナマエは男を盗み見る。

「どうしたのかね?」

「い、いいえ!何も!」

そうしたら男もナマエの方を見ていてせいでばっちりと目が合ってしまって彼女は盛大に心臓を高鳴らせる。慌てて視線を逸らすナマエの髪の隙間から覗く赤くなった耳に男の端正な顔が華やかに緩みナマエの手を取る力が少しばかり強まったのだが、彼女はその事には全く気が付かなかった。

そんなこんなで漸く大通りに再び出たナマエたちだったが辺りを見回しても白石の姿は影も形も無かった。目に見えて項垂れたナマエを見兼ねたのか、男はナマエの顔を覗き込むようにして声をかける。

「甘いものは好きかね?」

***

ナマエは悶絶していた。あまりの甘さに。

「~~~っ、甘い……!!」

「おや、甘いものは苦手かな」

「ち、違います!こんな、甘いもの食べた事無くてっ、顎が痛いです……!!でも美味しい……!!」

ナマエが連れて来られたのは大通りに面した甘味屋だった。戸惑うナマエを他所に男は常連なのか手短に注文を済ませるとナマエを連れて席に着いた。(しかも個室だ)それからすぐに注文した品が運ばれてきて勧められるがままにナマエはそれを口にしたという訳だ。両手で頬を押さえて顔を緩ませながら眉を寄せるナマエに男は穏やかに笑って、団子を串から抜いた。

「それは良かった。この店は私の気に入りでね。団子と茶がとても美味い」

言葉も無く頷くナマエに男は微笑むと串から抜いた団子をナマエの方に押しやる。

「食べなさい。それだけ美味そうな顔をされれば店の者も嬉しいだろう」

「で、でも……」

「何より美味そうに食べる君のその顔は愛らしい」

「……!!!!」

微笑まれてナマエの心臓は誤魔化しようも無く上擦る。ばくばくと音を立てる心臓を庇うように胸に手を当てるナマエの真っ赤な頬に男は揶揄うように手を伸ばして触れた。

「本当に、愛らしい。しかしそれだけでは無く、美しさも兼ね備えている」

「あ、ああああの!?」

「ほら、食べないのかね?では食べさせてやろう」

串を持った男は無造作に団子を串刺すとナマエの口許にそれを近付ける。

「ほら、口を開けて。……零れてしまう」

「あ、で、でも……」

「良いから。歯を立てずに……舌を這わせるように、一口で……そう、上手だ……」

「……?」

零れてしまいそうな蜜が気が気では無くてついうっかりと団子を頬張ったナマエだったが、何と言うか男の言葉選びが意図的な気がして首を傾げる。しかし男は気付かなかったのか、手の内の串で再び団子を突き刺すとそれを頬張った。

「ああ、やはり美味い。もう一本どうかね」

「えっと、じゃあ、頂きます……」

何かおかしいと思わずにはいられないナマエだったが、好物には逆らえず頷くのだった。

***

甘味屋を出て(会計はいつの間にか男がしてしまっていてナマエは恐縮するしかなかった)大通りに戻ってきたナマエが耳を澄ますと雑踏の声に混じって聞き覚えのある息遣いを聞いた。それは少し慌てたように乱れていて己を探しているのだとナマエにはすぐに分かった。

「あの、ありがとうございました。ここまでで大丈夫。もう探している人は見つかったから」

「本当かね?何なら『彼』の許まで付き添うがね」

「そこまでしてもらうのは流石に申し訳ないから。……本当にありがとう。あなたがいてくれて良かったです」

はにかんだように微笑むナマエに男は少しばかり物言いたげであったが、納得したように一つ頷く。

「では、私の案内はここまでで良いようだ。機会があれば、また会おう、……ナマエ嬢」

「本当に助かりました、ありがとう!」

男に手を振って背を向けたナマエだったがふと、おかしな事に気付く。……いつ、自分は男に名乗ったのだろうかと。名乗った気もするし名乗っていなかった気もする。慌てて後ろを振り返ったが男の姿は既に雑踏の中に消えてしまったのかナマエには見つけられなかった。

「あれ……?」

「おい!ナマエちゃん、ちゃんとついて来てくれねえと俺が怒られるだろ!?」

「あ、白石ごめん……。でも、はぐれている間にすごく親切な人に会ったんだ。あ、でも名前聞くの忘れちゃった……」

「もうナンパされてる!?」

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