大非常

夕張の街を聞き込みに歩いていたナマエが不意に立ち止まった時、前を見ていなかったアシパは彼女の背中に思い切りぶつかってしまった。

「うわ、どうしたんだナマエ?何か見つけたのか?」

「え……?あ、ごめん、そうじゃなくて、何か変な音がしない?」

「音?」

「うん……。地鳴りのような、すごく怖い音」

眉を寄せて耳を塞ぐナマエにアシパとキロランケも耳をそばだてるが特別何も聞こえない。ナマエにだけ聞こえる音なのかと怖がるナマエの背をキロランケが撫でて落ち着かせている時だった。

唐突に大きく地面が揺れる。少し離れたところから悲鳴のような声が上がったのを皮切りにナマエたちの周囲でも悲鳴が上がる。人々は口々に炭坑の事故を訴えている。

「……事故。じゃあさっきの音は……!」

「炭鉱の音だったのか……」

初めて感じる恐怖にナマエとアシパはお互いの手を握り合う。それを見たキロランケは僅かに目を眇めながらも二人に声をかける。

「どうする……?行ってみるか?」

怖々と頷く二人の手を確りと握ってキロランケは悲鳴のする方へと足を向けた。

***

音のする方向は耳の良いナマエでなくてもすぐに分かった。人々が逃げる方向を遡れば良いのだから。騒ぎの中心に近付くにつれて怒号も悲鳴も怪我人を見る回数も多くなっていって、ナマエは押し潰されそうな恐怖に身を震わせた。そして辿り着いた騒動の中心、夕張炭鉱であったが悲鳴と怒号が飛び交う大非常の場はナマエには勿論アシリパにとっても酷く恐ろしく、また苦しいものであった。特にナマエには全てが聞こえてしまうのだ。野次馬たちの悲鳴も、事態を収束しようとする人夫たちの怒号も、炭鉱労働者の生命を刈り取ろうとする自然の息吹も全て。

「キロランケニパ、怖い……」

「……大丈夫だ」

まさか手掛かりになるものは無いだろうとは思いながらも状況を確認しようとするナマエたちであったが、周囲は当然それどころではない。騒動が一段落するまでは情報収集も諦める他無いと結論付けたキロランケはぎゅう、と自身の上衣を握るナマエを護るように彼女の頭を撫でて、それから少し考えて彼女の耳を大きな手で覆った。

「……キロランケ、ニパ?」

「これなら少しは怖くないだろ?」

おずおずとキロランケの顔を見上げるナマエを安心させるように微笑んだキロランケにナマエも顔色は悪いが頷く。アシパもナマエを安心させるように彼女の手をそっと握った。少しばかり安堵したように息を吐くナマエは尚も心配そうに炭坑入り口を見つめていた。しかしびくりと身体を一際大きく震わせる。目を見開いて辺りを見回し始めたナマエにキロランケもアシパも不思議そうに彼女を見た。

「どうした?」

「す、杉元の声がする!多分、炭坑からだ!」

言うが早いか彼らの拘束を振り切って駆けだすナマエを引き留めようとするキロランケだったが間一髪ナマエはそれを擦り抜けて炭鉱の入口へと走って行ってしまう。

「オイ!ナマエ、待て!」

慌てて彼女の背を追おうとするキロランケの肩を誰かの手が押さえた―――。

***

杉元の微かな声を頼りにナマエは坑道を脱出しようとする炭鉱夫の流れを逆走する。何度も突き飛ばされ、その度に揉みくちゃにされながら走るナマエは、しかし呆然と立ち止まった。

目の前に大きな壁が立ち塞がっていたのだ。

(塞がれている……!?)

それは二次被害を食い止めるために炭坑を塞ぐための壁であるが、今のナマエには知る由も無い。慌てて坑道を塞ぐ壁に手を滑らせる。向かい側で閉じ込められた炭鉱夫だろうか、必死に壁を叩く音が聞こえてくる。

恐怖と無力感に滲む涙をそのままにナマエはただ、杉元の名を叫んだ。すると声が届いたのか向かい側の人間の動きが止まった気がした。

「ナマエさんか……!?」

「杉元!?そうだよ!私はここにいる!今何とかするから!」

弱々しい声であったが、それは確かに杉元の声であった。必死にこじ開けたのだろうか、立ち塞がる壁に僅かに出来た穴に手をかけて力を込めるナマエだが、当然どうにもならない。焦る気持ちを何とか押し殺しつつ辺りを見回す彼女に杉元は叫ぶ。

「ここにいたらナマエさんまで危ない!いいから逃げろ!!」

「駄目!絶対に死なせない!あなたのためにも、アシパのためにも!」

悲鳴のように叫ぶナマエであったが、その実何も出来ない事は彼女自身が一番分かっていた。非力な少女一人では壁を崩せない事も。それでもナマエは足掻く。もう二度と大切な人を喪いたくはなかった。

「どこかで聞いた声だと思ったら……」

不意に背後で声がしてナマエは振り返る。死を免れた人間たちの避難はほぼ完了しており、炭坑には最早人っ子一人いないはずだった。大きな影が伸びて、ナマエの影を覆う。その男を見上げるナマエに彼は不敵に笑った。

「あ、あなたは……!」

目を見開くナマエの肩を掴んだ男はゆっくりと彼女を壁から遠ざける。

「お嬢ちゃんは下がってな。……ここからは、俺の番だ」

「あ、……うん!」

ものの数秒で壁を破壊した男、牛山にナマエは安堵して杉元と白石に駆け寄る。塞がれた坑道から一気に噴出したガスに咳き込みながら、ナマエは杉元と白石を担ぎ上げた牛山を補助する。しかし鍛えている牛山と違って体力的に劣るナマエの呼吸はどうしても浅く早くなってしまってその分沢山のガスを吸い込んでしまう事になる。急激な眩暈と判断力の低下に疑問を抱くよりも前にナマエの身体は芯を失って座り込んでしまった。

「オイ、大丈夫か?」

「へ、へいき……。少し、悪い空気を吸い込み過ぎてしまったみたい。立てるよ……、早くいかないと、」

慌てて壁伝いに立ち上がり牛山に微笑むナマエだがその足元は覚束ない。手を差し出す牛山に首を振って尚も歩を進めようとする彼女に牛山はため息を吐くと杉元と白石を担いでなお余裕のある腕にナマエを抱き上げる。

「へ、へいき、だよ……!私一人で歩けるし、あなたも早く逃げないと、」

「あ?……女が無理するんじゃねえよ」

ぶっきら棒な口調なのに、その手は酷く暖かくてナマエはその大きな身体に確りと抱き着いた。朦朧とする意識の中で彼女が感じたのは大きな手の温もりと、新鮮な空気と、喧騒と、それから。

「ナマエ!おい!大丈夫か!?」

「ア、アシパ……、く、くるしい……、」

大好きな親友の絞め殺さんばかりの抱擁だった。

「全く、無茶しやがる……」

煤で黒くなった頬をキロランケに乱暴に擦られてナマエは所在無さげに俯く。飛び出して、結局役に立たなくて、しかも死に体で戻ってきた自分に呆れられているのだと思った。しかし次の瞬間にはその手が汚れるのも構わずにキロランケに大きく揺さぶられるように頭を撫でられてナマエは面食らったように顔を上げる。

「頑張ったな」

にや、と口端を持ち上げるキロランケにナマエは呆気に取られたように目を瞬かせて、そして言われた事を理解して顔を緩ませる。尚も彼女の髪をめちゃくちゃにするキロランケに照れたように微笑んで、それから彼女は振り返って牛山にも微笑みかける。

「ありがとう……チンポ先生……。私ではどうにもならなかったから、二人を救えて本当に嬉しい。あなたも無事で良かった」

「あ、いや、別に……」

改まられて面食らう牛山に杉元は思い出したように口を開いた。

「そういや、お前なんでこんな所にいるんだ?」

「ん……?ああ、連れと来たんだがいつの間にかフラッといなくなってな。探していたところに嬢ちゃんが駆け出していくのが見えたからよ」

「連れ?」

牛山の言葉に首を傾げるナマエたちに影が忍び寄る。

「……やれやれ、お仲間勢揃いじゃねえか」

「あ、こいつ」

牛山が指差した男は煤で汚れた髪を掻き上げると、にや、と口端を持ち上げた。

「仕方ねえ。……お前ら全員ついて来な」

男の昏い瞳が、一行の顔を見定めるように辿っていく。そしてその視線は一人の上で止まった。未だにキロランケとアシパに心配されて、困ったように眉を寄せて笑うナマエの上で。

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