無垢と悪意と好奇心

江渡貝弥作は嬉しさでいっぱいだった。父親を喪って以来誰も認めてくれなかった己の作品を漸く認めてもらえたのだから。工房で鶴見に煽てられながら夢中でファッションショーに興じる江渡貝であったが、しかし物音に気付き振り返る。そこには黒灰色の髪をした男が一人立っていた。

「だっ誰ですか!?勝手に入って来て!」

「お楽しみの所を邪魔して悪いが、鶴見中尉が遅いから迎えに来たんだよ。いい加減に本題に入って貰わないとな」

かっちりとした軍服に身を包んだ男は、鋭い目付きで江渡貝を一瞥する。その瞳には強い光が湛えられている。まるで野生の獣のようなその力強さに剥製屋の血が疼き、江渡貝は男の目に見惚れる。捕食者の如きその瞳は全てを統べる力強さを持っていた。

「おお、エコリアチ。見たまえ、素晴らしい出来だろう」

「ううん、俺に芸術なんて理解出来ないんだから聞かないでくださいよ。俺はただ、あなたの言った事に頷くだけですよ」

困ったような表情で鶴見を見据えるエコリアチの縦長の瞳孔が猫のように細まるのを江渡貝は見た。陽光を反射したその瞳はきらきらと輝いて、出会ってまだ数分のエコリアチを酷く魅力的に見せた。

「全く……、すまないね江渡貝くん」

「ぜ、全然気にしてません!ボクの作品を認めてくれたのは鶴見さんが初めてなので!」

「…………ふうん」

江渡貝の言葉に一瞬だけ表情を変えた男だったが、すぐに表情を消して江渡貝を見つめる。見定められているように感じられて、知らず江渡貝は呼吸が苦しくなるのを感じた。それはまるで、昔、母に折檻された時のような苦しさだった。

「それで、この江渡貝くんとやらは貴方の思惑を叶える事が出来るんですか?」

「うむ、江渡貝くんの技術は素晴らしい!これならば私の思い描いていることが出来そうだよ!」

「へー、良かったですねえ。じゃあ、その江渡貝くんに俺は付けばいいんですね?」

「うん」

目の前で交わされる会話からするに男は鶴見の部下なのだろう。そう察した江渡貝だったが男の発する掴み所の無い様子に中てられて中々声を掛けられない。すると鶴見が江渡貝の様子に気付いたのか声をかけてくれる。

「江渡貝くん、彼はエコリアチ。名前から察してもらいたいがアイヌの生まれだ」

「どうも」

「よっよろしくお願いします……!」

一瞬だけ微笑まれて差し出された手を江渡貝はどぎまぎしながら握る。こうして江渡貝とエコリアチ、そして月島と前山による奇妙な共同生活が始まった。

***

共同生活が始まってから気付いた事であったが、江渡貝弥作という男は自分でも驚くくらいに酷く繊細な男だった。彼自身もう何年も生きている他人と一緒に暮らしていなかったから忘れていたことであったが、小さな物音にも彼は敏感に反応する性質だったのだ。例えば玄関の扉の開閉音にも。

相も変わらず音を立てて閉められる玄関扉に江渡貝は持っていた人皮の断片を机に叩き付ける。我慢の限界だった。毎回毎回扉は静かに閉めろと言っているのに!

「ちょっと!今帰って来たの誰ですか!?扉は静かに閉めてっていつも言ってるじゃないですか!?」

「まあまあ、江渡貝くん。月島軍曹だって悪気は無いんだ。許してやってくれないか」

「ボクは!もう!ウンザリです!エコリアチさあん!」

「江渡貝くん、集中して!エコリアチも余計な事を言うんじゃない!」

「まあまあ、月島軍曹もそんなに怒らないで」

工房から顔を出して怒鳴る江渡貝はエコリアチを見つけると泣き付く。いつの間にエコリアチは江渡貝を手懐けてしまったようだ。ヒステリックに喚く江渡貝を宥める月島だったが、しかし手を焼いていた。江渡貝は繊細で自分たちの一挙手一投足に反応するし、何よりこのアイヌの男、エコリアチの存在が既に月島の手に余っていた。

エコリアチとは旅順で戦い抜いたいわば戦友だったが、その実彼はそういう馴れ合いを好まないのかいつまで経っても周囲に一線を引いたような態度を取る。時折鶴見には穏やかな表情を見せる事もあるようだが、それも非常に稀な事で、月島は正直この青年が何を思ってここにいるのかが分からずにいた。

人間の剥製なんて不気味なもの、月島だってあまり近寄りたいとは思わないのに、江渡貝を作業部屋に連れ戻したエコリアチは平然とそれらを押し退けて椅子に腰掛けると机に足を乗せる。それから皮を剥がされた人間剥製に目をやって薄らと笑う。

「人間の皮の下には、何があるんでしょうね」

まるで明日の天気でも聞くかのような口調で月島に話しかけるエコリアチの瞳は澱んでいる。あの瞳を初めて見た時、その色は今と変わりなかったろうかと月島はふと思い出せない問いの答えを考えた。

「さあな、考える気にもなれん」

「…………まあ、どんな聖人だって、皮を剥がしちまえば同じなんですよね」

せせら笑うエコリアチはぼんやりと遠くを見ている。その視線の先の窓は夕張の煤けた空を切り取っていた。

「俺は案外、江渡貝くんのような人間の方が、純粋で美しいのではないかと思うんですよ」

「何?」

「江渡貝くんの純粋なまでの残酷さは、まるで生まれたばかりの子供みたいに見えるんです。ほら、好奇心に負けて虫を殺した事ってあるでしょう?悪意ある残酷さではないっていうか。……それに、俺にとっては大人たちの方が……」

端正なエコリアチの顔に浮かぶ憎しみにも似た感情の理由を月島は知らない。エコリアチが何も言わないからだ。だが彼の言う事の意味は分かるような気がした。それは月島だって知っていた事だったからだ。

***

江渡貝がふと集中を切らして、作業部屋から出て来た時、そこにはエコリアチしかいなかった。彼は窓の側に体を寄せて、ぼんやりと外を見ていた。差し込む夕陽にエコリアチの黒灰色の瞳が煌めいていた。

「あ、エコリアチさん。月島さんたちは?」

「……ああ、風呂に行ったよ。さっき行ったばかりだから、まだ掛かるんじゃないかな」

「そうなんですね。通りで静かだと思った!」

清々したと言わんばかりに息を吐く江渡貝に、エコリアチはおかしそうに笑った。その顔は酷く穏やかで、江渡貝には闘争心など欠片も感じさせなかった。

「エコリアチさんは不思議な人ですね。僕は仕事で何度か軍人さんとも会いましたけどあなたはそのどの人とも違う気がします」

「ん、まあ、俺はアイヌだから、見慣れないだけだろ」

澄ました顔で笑ったエコリアチは江渡貝の手元を覗き込むようにして刺青人皮の贋作に触れる。それから感心したように片眉を跳ね上げた。

「へえ、よく出来てるな。本当に本物みたいだ。ま、俺は現物も遠目に見ただけだから詳しい事はよく知らんが」

「ほ、本当ですか!?刺青が真皮を透かした感じが凄く難しいんです!でもスゴくやり甲斐があって!」

「ふうん。江渡貝くんは、本当に剥製が好きなんだな」

社交辞令の上に僅かに興味を上乗せしたエコリアチは江渡貝の手元を更に覗く。

「なあ、剥製ってなんでも作れるの?」

「え?ハイ!大きさによって製作期間はまちまちですが、基本手順は一緒です!」

「へえ、面白いね。俺も何か、江渡貝くんみたいな才能や没頭出来る物があればなあ」

気の無い顔で江渡貝の目を見たエコリアチは答えを待つでも無く興味を失ったのか、一つ大きな欠伸をすると手近な椅子に腰掛けた。そして尚もエコリアチの事を呆けたように見つめている江渡貝に首を傾げる。

「何見てんの?」

「あ、いいえ!その、エコリアチさんの瞳が、初めて見た時からずうっと綺麗だと思ってました……」

うっとりとした目でエコリアチの瞳を見つめる江渡貝をエコリアチは無感動に見つめたが少しばかり目を伏せる。長い睫毛が陰を落とすようにエコリアチの瞳を覆い隠す。

「……江渡貝くんも、同じ事を言うんだな」

「……え?」

皮肉げな顔でエコリアチは江渡貝を見る。その瞳の中の瞳孔が綺麗に収縮している様まで江渡貝にははっきりと見えた。震えるような感覚が腰から脳髄を駆け抜ける。ぞくりとした感覚に彼は生唾を飲み込んだ。

「……どういう、事ですか?」

怪訝な表情の江渡貝にエコリアチは蠱惑的に微笑んだ。それから視線を少しだけ動かして江渡貝の右手側に置かれた剥製道具を見る。そこに置かれた短刀に目を細めたエコリアチは徐にそれを手に取ると鏡のように己の瞳を映す。しかし江渡貝の近付く音に青年は手に持った短刀を置いた。

「妹も、そう言った。……初めて兄妹として知り合った時、あの子は俺の目を見てそう言った」

「知り、合った……?」

エコリアチは諦めたように笑った。全てを投げ出したようなその笑みに江渡貝は狼狽える。何か声を掛けなければと思ったがもうずっと一人で生きていた江渡貝には彼に掛ける言葉が見つからない。おろおろと右往左往する江渡貝を笑ったエコリアチは体勢を変えて足を組んだ。

「妹と俺は『とある事件』のせいで、引き離されて育てられたんだ。両親は俺を慈しんでくれたけど、妹の事は顧みなかった」

「な、なんで…………」

「妹は、『望まれない子』だったんだと。でもそれは、…………あの子のせいじゃ、ないのにな」

遠い目をするエコリアチの瞳に映る寂幕とした色に江渡貝の胸は打ち震えた。彼は世にこれ程までに美しくて弱々しく、それでいて生を感じさせる瞳を知らなかった。

***

琥珀色の瞳が炎を反射して煌めく。ぼんやりと炎を見つめるナマエにアシパは静かに傍に寄った。

「なあ、ナマエ」

夕張はもう、目の前だった。ダンが言う夕張の男まで、もうすぐ。

ぱちり、と跳ねた炎に一瞬目を細めたナマエだったがアシパが近付いて来た事に気付き彼女に向かって微笑む。狼の瞳が愛らしく弧を描いた。

「アシパ……、どうしたの?」

その表情は、どこか「彼」の面影があった。ナマエはそれを否定するけれど、アシパは、ナマエと「彼」が良く似ている事について何らの違和を感じていなかった。そして、「彼」にそっくりなその顔を見る度にアシパは伝えるべきなのか迷っていた。アシパは未だにインカマッに言われた一つの可能性をナマエに伝えられずにいたのだ。

彼女の兄、エコリアチがまだ生きている可能性を。

「……随分遠くまで来たな」

「ああ……そうだね。私も小樽の薬屋さんくらいまでしか行った事が無かったから、こんなに遠くまで来たのは初めて」

ぱちぱちと爆ぜる炎を絶やさないように新しい木の枝を差し込みながら、ナマエは穏やかに微笑む。その横顔にアシパは何も言えなくなって、ゆっくりとナマエに凭れかかった。ナマエも何も言わずアシパの濡れ羽色の髪を撫でる。

「……ナマエは全て終わったらどうしたい?」

焚き火にシタッをくべる二人の周りを僅かに風が吹き抜けた。ざわざわと山の木々の葉が擦り合う音が聞こえる。

「うーん……。一旦はコタンに戻るかもしれないけど、やっぱり、旅に出ると思うんだ。アシパはとても良くしてくれたけど、やっぱり私は兄さんとの約束を守らなくちゃ。アシパは?」

「私は……、そうだな。ナマエがまた旅に出るまで、この旅の話をナマエと沢山したい。楽しかった事も、苦しかった事も」

微笑むアシパに一瞬だけ驚いたような顔をしたナマエはしかしやはり同じようにアシパに微笑み返すとゆっくりと炎を見つめる。

「遠くまで、来たね……」

感慨深くも聞こえるその声にアシパはひっそりと項垂れた。まだ可能性を口にする事は出来なかった。

夕張まであと少しである。

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