閑話・思い出

鶴見中尉殿は家族との思い出というのはありますか?……あ、良いんです。別に聞きたくありません。……自分の家族の話なんてしたくない。でも、それ以上に他所様の家族がどんなに「素敵」だったかなんてそんな惨めな話は聞きたくないので。

え?ああ、そうですよ。俺は家族が大嫌いです。憎んでいると言っても良い。……昔は大好きで、俺も愛していました。でも、「あの日」から、妹がこの世に生まれ落ちた日から、俺は家族を憎むようになったんです。

そうですね、どこから話しましょう。……じゃあ、最初から。俺の両親はアイヌでした。両親の両親も、その両親もアイヌです。俺はとあるアイヌの夫婦の許に長男として生まれ、誇張無く大切に育てられてきました。本当に幸せでした。強い父、優しい母。いつかきょうだいができたら、今度は俺がその子を兄貴として導いてやろうと思っていたんですが。でも。

それは俺が七歳になったばかりの頃でした。山菜を摘みに出掛けた母が、いつまで経っても帰って来なかったんです。最初は時間を忘れているのかなと楽観的だった俺たちも、日が暮れる頃にはそれが焦りに変わりました。明らかに、何かがおかしかったんです。

すぐに母の捜索隊が組まれました。コタンに残された俺は最悪の事も覚悟していました。崖から落ちたとか、キムンカムイに喰われてるとか、そりゃあ色々。…………でもね、「大人」っていうのはもっと醜悪なんだって、俺はその日初めて知りました。

母は父に抱えられて帰って来ました。全身傷だらけで、泣いていました。俺は幼かったからその時は分からなかったけれど、彼女は乱暴されたんです。相手が和人なのか、異人なのか、それとも同じアイヌなのかは分かりません。母は俺には何も言わなかったから。

ただその日を境に母の顔から笑顔が消えました。そして、母が身籠った事で父の顔からも。…………ええ、そうです。その子が俺の妹、ナマエです。ナマエは母への狼藉の末に生まれた、所謂「望まれない子」だった訳です。

何度も何度も、母は堕胎を試みました。水に浸かったり薬を飲んだり、それこそ様々な事を。それでも、ナマエはこの世に生まれ落ちました。それはとても元気な産声でした。俺にはそれがこの世に生まれ落ちた事を喜ぶ、祝福の声のように聞こえたんです。

こんなにも、心揺さぶられた事はありませんでした。俺とナマエは確かに、普通の兄妹よりは血の繋がりは薄いのかも知れない。だけど、確信がありました。この子は俺の妹なんだって。

でも、両親は生まれ落ちた子をその腕に抱く事はしませんでした。きっと最初から、そのつもりだったのだと思います。育てるつもりもなかったのでしょう。それでも、生まれて来たものを殺す事も出来なかった。だからナマエは「コタンの子」になりました。

貰い乳で育てられ、あちこちの女の腕に抱かれたナマエを、コタンの大人たちは腫れ物に触れるように扱ったんです。父親の分からぬナマエが幼いのを良い事に、有る事無い事吹き込む大人もいました。……その気持ちは、正直分からなくもないです。俺だって、悩みながらナマエと接してきた。だけど、父親が誰か分からないのはナマエが悪い訳じゃない。寧ろ、ナマエは被害者なんじゃないかって。

本当だったらナマエは俺の妹として、否、俺の両親の子として愛されて育つはずだったのに。俺は忘れない。物陰から窺うように俺の両親を見るナマエの顔を。

ナマエはとても聞き分けの良い子でした。俺や両親に近付いてはいけないと言われて育てられたようで、両親に代わって様子を見に来る俺にも必要以上に畏っていました。ナマエが七歳の頃だったかな。俺がナマエの兄貴だと教えたのは。そうしたらナマエはとても喜んでいました。「初めて家族が出来て嬉しい」って。何で引き離されて育てられているのかなんて聞きもしなかった。ただ、家族がいた事を喜んだんです。

だって両親は、あの人たちはただの一度も振り返らなかったから。あの人たちはナマエを、我が子とは呼ばなかったから。その姿に、俺は酷く失望してしまった。……この人たちと家族でいる事を、受け入れられなくなった。……受け入れては、いけないんだ。

だから、です。俺が、鶴見中尉、あなたに付き従うのは。

俺はナマエと約束したんです。いつかコタンを出て行こうって。こんな、ナマエ一人に全ての業を押し付けてしまうような人たちなんて捨ててしまおうって。

ナマエは俺の夢想を嗜めたけど、俺は本気です。ナマエは俺の妹で、俺はナマエの兄貴なんだから。兄貴が妹を導くのは、当然です。

コタンを出て行くには当然ながら金が要るから、俺はその金を作るために軍隊に入ったんです。それが入隊した理由です。そうしたらまさか、付き従おうとしていた上官がアイヌの俺でも作り話だと思っていた金塊の話を信じていて、あまつさえ、それが真実だとは思わなかったですけどね。

…………まあ、何だって良いんです。纏まった金が俺は欲しい。そして、その目的が達成されるまではどんな事だってやるし、どんな屈辱にだって耐えてみせる。

人は俺にナマエのせいで家族が壊れたと言うけれど、元を正せば母に狼藉を働いた男以外誰一人、悪い奴はいないんです。それなのにナマエを全ての捌け口にするのはおかしい。綺麗事ですよね。でも俺はあの日、あの産声を聞いた時から、ナマエの生を祝福したい気持ちで一杯なんです。ナマエの世界には、愛や幸福なんかの綺麗な物だけ存在していて欲しい。

ナマエは俺の妹です。それ以上でも以下でもない。俺にとって、ナマエは大切な家族なんだ。それ以外に、俺がここにいる理由が、何か必要ですか?

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