漸く傷も癒えてきた頃に、唐突にアシリパの集落に姿を現した尾形からの追及を躱す谷垣の顔を尾形は見透かすように見る。その瞳に感情らしき感情は見えず、その事が余計に谷垣の焦燥感を煽った。疑われていないだろうか、疑いは晴れただろうかと必死に尾形の表情を読み取ろうとするが、尾形の真意は谷垣には読み取る事は出来ない。尾形の目的も分からずに谷垣はただ、生唾を呑み込むしか出来なかった。
相変わらず谷垣の三十年式歩兵銃のボルトを玩びながら、尾形はにやにやと表面上は楽しげに笑っている。集落の人間に危害が加えられるのだけは避けたいと、いよいよ谷垣が実力での二人の排除を視野に入れ始めた頃だ。不意に尾形が真剣な表情を作る。
「……そうだ、谷垣よ。この村に薬師はいるか?」
「薬師、ですか……?」
一瞬谷垣の脳裏をナマエの姿が過ぎる。今は杉元たちと集落から出ている彼女に尾形が一体何の用があるのか谷垣には測りかねた。杉元の事を尾形に知られるわけにはいかない。ではナマエの事は?誤魔化すのが適当なのか、話してしまうのが適当なのか谷垣は内心で顔を顰める。口を噤む谷垣に焦れたように尾形は何かを取り出す。
「何を警戒している?俺はこの小刀の持ち主を探しているだけだ」
「……それは!」
目を見開いた谷垣に尾形は口端を持ち上げる。それは谷垣が以前一度だけ「鶴見が」持っているのを見かけた小刀だった。あの時はその小刀が一体どこから来たものなのか気にもならなかったし、何も思わなかったがよくよく見ればその小刀にはアイヌの文様が装飾されている。そして。
「それ、ナマエのマキリに似ているね」
オソマの無邪気な一言に尾形の視線が動く。尾形にはそのつもりは無かったのかもしれないが、オソマは睨まれたとでも思ったのかびくりと身体を揺らして谷垣の背に隠れた。
「ナマエ?」
尾形の鋭い瞳が谷垣を射抜く。説明を求められている事は明らかで、谷垣は渋々口を開く。ただ、本当の事を言う気は更々無かった。尾形のような男とナマエが関わり合いになって良い事など谷垣には一つも思い当たらなかった。ナマエが今、アシリパの叔父の様子を見にアシリパらと共にニシン漁に行っている事が幸いに思えた。
「っ、彼女は確かにこの集落の薬師ですが今は薬草集めに集落を離れています。当分戻らないでしょう」
「なんだ、薬師がいるなら早く言え。……、あの娘、ナマエというのか?」
谷垣の言葉に僅かに考え込む尾形は何事かを呟いたが、その後半部分は殆ど尾形の口内で転がされたせいで谷垣に届く前に外を吹く風の音に掻き消される。掻き消された声に尾形の底知れ無さが増し、谷垣の焦燥感は更に増していく。杉元だけでなくナマエにも、危険が?
「……尾形上等兵は、」
ここで少しでも尾形の真意を確認しておかなければアシリパたちだけでなくナマエにも危害が及ぶかもしれない。そう考えた谷垣は薄氷を踏み締めるように慎重に考えを纏めてから目を細める。
「ナマエに、この集落の薬師に一体何の用が?」
谷垣を見る尾形の目が細められる。野生の獣が狩りをする寸前にのみ発せられるような密やかな殺意が一瞬漏れ出た気がして谷垣は尾形から目を逸らしそうになるのを必死に耐える。ここで目を逸らしたら、やられるという確信があった。しかし見定めるように谷垣の表情を見た尾形はそれからあっけなく表情を緩める。
「そんな顔をするな。これの持ち主に危害を加えるつもりは無い。……忘れ物を、返してやるだけだ」
その表情がやけに穏やかなことが谷垣の目には末恐ろしく思われたが、その感覚は確かなものになる前に尾形が表情を消した事で酷く曖昧な感覚として谷垣の中に渦巻くだけだった。
***
「……その小刀、あのバアさんのところに置いて帰ればいずれ貴方を助けたとかいうアイヌの許に届くでしょうに。外套は渡した癖にどうして小刀は渡さなかったんです?」
ゆっくりと、谷垣に気取られぬように集落を出ていく尾形の後ろから二階堂が呆れたように声をかける。尾形の手には谷垣の銃のボルトと共にマキリが確りと握られていた。
「わざわざ鶴見中尉殿のところからちょろまかして来た小刀を俺がそう簡単に手放すとでも思ったか?……これだけは本人に直接届けなければ意味が無い。……借りの清算と言ったところか」
「この北海道にアイヌが一体いくらいると思っているんです?大体あなたがここに来たのだって件の場所から一番近い集落がここだったからでしょう。そもそも本当にここなんですか?小樽付近にだって集落はいくつもあるのに、その中からその小刀を持っていたアイヌがここにいるという証拠がどこにあるんです?」
「…………」
二階堂の問いに尾形は何も答えない。ただ、握ったマキリを大事そうに仕舞うだけであった。
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